鹿島美術研究 年報第33号
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付けができる。次に、従来の研究では注目されてこなかった印相の問題を扱う。カーピシー派には施無畏印や禅定印というガンダーラの他の地域でも一般的な印相に加えて右手で左手を掴んで胸元に置く独特の印相が看取される。ペシャーワル周辺域から出土する仏説法図における説法印は施無畏印や禅定印に遅れて制作されるようになったと考えられ、この独特の印相は説法印の形式化したものとみられている(宮治昭『涅槃と弥勒の図像学』吉川弘文館、1992、p. 313.)が上方へ集めた左手の指先を右手で柔らかに包む説法印と異なり、右手から左手先が突き出しているため、別個の印相である可能性も検討する必要があると考えられる。また他地域では、説法印は仏陀像にも菩薩像にも看取される印相である。しかし対照的に、カーピシー派においてはこの独特の印相は弥勒菩薩像にしかみられない点も注目される。従ってカーピシー派における印相と尊格の結びつきや主題との関係を整理し、他地域と比較検討することでこの独特の印相が説法印と解されうるのか、異なるとすれば何を意図しいつ頃創出されたのかを判明させる。またカーピシー派の、特に第二様式に分類される供養者像(図3)はマトゥラーで描かれる供養者像(図4)に類似しており、特に図4は「フヴィシュカの29年」の年記を伴う(J. M. Rosenfield, The dynastic art of Kushans, 1967, Berkeley and Los Angeles, pp. 229-230.)。この年記はFalk, op. cit.より西暦156/7年と計算でき、最終的な結論は詳細な検討を踏まえてからになるが、カーピシー派第二様式が従来の理解のようなガンダーラ末期ではなくカニシュカ、フヴィシュカ両王の治世下でありガンダーラ最盛期にあたる2世紀にまで遡りうることが指摘できる。両地域はともにクシャーン朝支配下にあり、クシャーン諸王は季節毎にカーピシー~マトゥラーを移動していたことから美術に於いても少なからぬ交流があったことは想像に難くない(田辺 op. cit., p. 110.)ため、偶然の一致や時期のずれを想定する蓋然性は低い。以上のように編年と他地域との関係性を検討するだけでも多くの主題、モティーフがその対象となる。最終的にはこれらを統合し、ガンダーラ美術全体におけるカーピシー派の位置づけを行う。―77―

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