鹿島美術研究 年報第33号
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平安~鎌倉期における阿弥陀浄土図の展開―「和様化した阿弥陀浄土図」の実像とその成立背景―研究者:奈良国立博物館研究員北澤菜月本研究の目的は、先行研究において「和様化した阿弥陀浄土図」と位置付けられてきた、日本の阿弥陀浄土図の一群を詳細に検討し直し、新たに仏教絵画史上の位置を与えることにある。そもそも「和様化した阿弥陀浄土図」とは、奈良時代に日本で受容された中国唐代の図像表現を踏襲した阿弥陀浄土図と、鎌倉時代に主に受容された中国宋代の図像表現を踏襲した阿弥陀浄土図の間にあって、どちらにも所属させにくい、主に鎌倉時代に製作された阿弥陀浄土図に対して用いられた言葉で、その定義は曖昧模糊としており、個別の作品研究もほとんど行われてこなかった。こうした状況を前進させるため、筆者はこの範疇に含まれる阿弥陀浄土図の作品研究を継続して行ってきた。これまでの作品研究の結果、こうした作品群に認められる特徴として以下の二点を指摘することができる。第一に、経典以外の図像典拠として『往生要集』など恵心僧都源信(942~1017)の著作の存在が認められることが挙げられる。また第二に、部分的に中国宋代の図像との一致が認められることがある。この二点の特徴は、作品によって重複する場合としない場合があり、その違いによって分類や系統立てが可能である。平安時代後期には、恵心僧都源信の著作(讃を含む)を典拠とする阿弥陀浄土図が製作された記録がある。現存する鎌倉時代の「和様化した阿弥陀浄土図」の一部は、恵心僧都源信以後の平安時代、11~12世紀に浄土願生者へ源信の著作の内容が浸透した状況を前提として、日本で既存の阿弥陀浄土図を変容させて製作された可能性が考えられる。すなわち、浄土経典の変相図をベースにしながら、それから逸脱し、日本の浄土願生者が最も親しんだ源信の著作にあらわされる阿弥陀浄土が描かれるようになったことが想定される。こうした変容が一種の「和様化」であった可能性を、具体的な図像の検討を通じて明らかにしていきたい。あわせてこうした特徴を持つ阿弥陀浄土図が生まれた環境についても検討したい。一方で、第二に挙げたように、この種の阿弥陀浄土図には唐代よりもむしろ宋代に認められる図像の受容が認められる点も重要である。そもそも恵心僧都源信は、宋から清凉寺釈迦像を請来した奝然と同世代であり、奝然同様、宋代の仏教に非常に強い―78―

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