鹿島美術研究 年報第33号
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朝鮮における西洋画法の受容―李亨禄の「冊架画」を手がかりに―関心を持っていた。本人は入宋することがなかったものの、北宋天台及び法相宗と積極的に交流をしたことが知られる。源信周辺で、実際にどの程度宋代文物がもたらされ、さらに受容されたかは現段階では明らかでないけれども、研究によって源信以降のどの段階で阿弥陀浄土図に関して、宋代図像の受容が行われ得たのか、改めて検討することにしたい。そして、そもそもは大陸で成立した変相図が改変され、日本で編まれた著作に影響を受けた図像が組み込まれ用いられるといういわば内向きの変容と、宋代の図像を受容するという、逆に外向きの変容が同時並行的に起きた史的背景にも考察を及ぼしたい。以上のように、本研究の大きな目的はこれまで具体的な図像典拠や、成立背景が明らかとされてこなかった日本の阿弥陀浄土図の一群を、より正確に日本浄土教絵画史、ひいては日本仏教絵画史に位置付けることである。また、その過程において平安~鎌倉期における阿弥陀浄土図の変容の動向を把握したい。研究者:同志社大学大学院文学研究科博士後期課程 意義と価値:朝鮮絵画における西洋画法の受容について、従来の研究は、山水画/肖像画/記録画がそれぞれのジャンルの用途に応じて、西洋画法を選択的に―西洋画法を構成する様々な規則から必要な要素だけを選択して―受容していると指摘してきた。その指摘は、概ね次のようである。主に鑑賞用である山水画については、安輝濬によると、集中遠近法の点では、一部のモチーフ(道や建物)が短縮されているが、それらの消失点は必ずしも一点に集中しない。また陰影法の点では、一個一個のモチーフ(山や樹木)に明と暗を、光と陰(shade)として描き分けることによって、立体感を表すが、影(shadow)を表現しないばかりか、全体を統一する光源を意識して明暗を描くわけではない。このような表現は、18世紀中頃の一過的な現象で、19世紀になると、南宗画(文人画)の影響で西洋画法の影響は薄まった。もっぱら祭儀用もしくは政教用である肖像画については、趙善美によると、像主の肖似性を実現するために、集中遠近法の点では、人物が座る倚子を短縮することはあるにしても、画面全体を遠近法的に統一することはない。陰影法の点では、顔、衣服、倚子に明/暗を光/陰として描き分けるが、影は描かず、統一的な光源も意識してい―79―朴美蓮

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