るわけではない。このような陰影の表現は、18世紀から、細密な描写とともに、顔、衣服、倚子の順に適用する場所を増やし20世紀初めまで続いた。宮廷行事の記念用である記録画については、李成美によると、集中遠近法の点では、儀式や出来事に関する情報を可能な限り多くを説明するために、俯瞰的な視点を採用するとともに、建物と人物の間隔を距離に応じて短縮するにしても、建物と人物そのものの大きさを短縮するわけではない。また陰影法は、まったく利用しない。このような短縮のある表現は18世紀から20世紀はじめにかけて徐々に増える。このように朝鮮美術の各ジャンル(山水画/肖像画/記録画)は、西洋画法を選択的に受容しているわけであるが、3つのジャンルにおいて共通して、画面を統一する光源を意識することはない。しかし、筆者の期待される研究結果によると、冊架画における陰影法は、画面の中心を基準にして左右に分け、左側の画面にある器物の明部は左に、右側の画面にある器物の明部は右に揃えていることから、2つの光源を意識していることになる。このような事態は、消失線の高さを着座の人の目の高さに一致させるという集中遠近法の工夫とともに、冊架画の用途(どこで、何のために使うか)について改めて考察する手がかりになるように思われる。また、その冊架画の写実性が強化されたA期(1863-1871)は、朝鮮の最後の王である高宗(第26代王、在位:1863-1897)が、若くして王位を継承して間もない時期で、専制王権を確立するために、父である興宣大院君(1820-1898)が攝政を行い、景福宮を再建したり、既得勢力を打倒したりするなど様々な事業が行われた。第22代の王・正祖(在位:1776-1800)が制作させた冊架画が、臣下に儒学の本を読むことを勧めるための鑑戒用であったことを考えると、李亨禄の冊架画の制作目的も王権強化するためであった可能性も考えられる。構想:以上の結果は、冊巨里というジャンルの文脈において、その意味を考えることもできる。安輝濬は、冊巨里の歴史的な展開について、集中遠近法で描く「冊架画(本棚型)」(宮廷と貴族の間で使用される)が、平行遠近法で描く「床置き型」(宮廷と貴族の間で使用される)へと展開し、さらに逆遠近法で描く「テーブル型」(民間でおもに使用される)へと展開して、西洋画法が崩れて行くという仮説を提案している。このような仮説が生まれる背景には、朝鮮絵画が、だまし絵のような写実性よりも、描かれる物の象徴的な意味、いわゆる吉祥的な意味を重視するという傾向がある。今回の研究対象である李亨祿は、宮廷画員であり、「冊架画(本棚型)」とともに伝統―80―
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