鹿島美術研究 年報第33号
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堕地獄説話の図像形成と遼代仏教説話―兵庫・極楽寺蔵六道絵を中心に―《研究の意義》ところで、延慶寺の涅槃会における堂内荘厳は、筆者が以前に明らかにした南宋時代の水陸画の懸用法に類似する点は注目される。南宋第二代皇帝孝宗の宰相を務めた史浩は、12世紀末頃に故郷の寧波の東銭湖畔に水陸会をもたらし、水陸画として十界像を設けたというが、現存作例から想定されるその内訳は、「仏・法・僧」、「菩薩」、「縁覚」、「声聞」に六道を加えた十幅であった可能性が高い。本図の場合は釈迦としての「仏」と仏弟子としての「僧」を表しており、その左右に「諸法蔵」、「諸菩薩僧」、「諸縁覚僧」、「諸声聞僧」の位牌が並ぶとすると、堂内に祀られる尊像の構成要素が共通する。史浩は延慶寺の僧に帰依しており、水陸画を制作する際にも延慶寺の堂内荘厳が参考とされた可能性が考えられる。このことは、本図が延慶寺の文化圏の中で制作された可能性を高め、かつ延慶寺の規範性、あるいは周辺寺院との影響関係を考えるための具体例を提供するものである。研究者:大阪市立美術館学芸員石川温子日本中世仏教美術史は、寧波仏画や禅文化など宋朝に依る所があまりに大であるために、宋との文脈で多くが語られる傾向にある。しかし翻ってテキストと美術作品との関係に目を向ければ、筆者が調べた限りでは、極楽寺本をはじめ鎌倉期の仏教説話画に遼僧非濁の仏教説話集が度々利用されている。このことは特に注目すべきことである。遼代テキストの受容された背景も視野に入れて極楽寺本の研究を行うことは、極楽寺本のみならず堕地獄譚を描く仏教説話画流行の母胎となった鎌倉期仏教界の様相を明らかにすることにもつながろう。さらに13世紀における仏教説話画と遼代仏教説話集との密接な関係を証明すれば、テキストの面から、宋偏重の美術史に新しい視点を提供できると確信している。《遼代仏教の見直し》近年、仏教交流史や仏教思想史の方面から遼代仏教の見直しが盛んに行われ、北方部族国家の遼が唐代仏教を継承し、日本、高麗、北宋の11世紀東アジア諸国をめぐる仏教交流の一大拠点であったことが明らかにされつつある。言うまでもなく美術作品はそのような交流や思想の結晶であり、これらの研究の成果も踏まえて論じられるべ―82―

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