鹿島美術研究 年報第33号
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きである。塚本善隆氏は、非濁の説話集が11世紀後半に遼・燕京において編纂され、宋もしくは高麗を通じて12世紀初に日本へ流伝したのち、浄土宗開祖法然(1133-1212)や南都興福寺僧貞慶(1155-1213)、東大寺僧宗性(1202-1292)らの言説に引用されたことを証明された。『醍醐寺焔魔王堂絵銘』や四天王寺絵堂にもこの説話集の図像が看取できるように、少なくとも13世紀の前半まで強い影響力を誇ったことは確実である。非濁の仏教説話集は思想、美術両面で盛んに用いられており、12世紀から13世紀の仏教界を席巻していたことがうかがえる。ここに日本中世仏教の様相の一片を見いだせるのである。筆者は、極楽寺本はこの遼代仏教説話集受容の潮流のなかで13世紀後半に制作されたと考えている。裏を返せば、遼代仏教説話集の流行も13世紀後半まで継続していたとも言えよう。美術史分野において遼代仏教の波及を論じ得れば、新たな東アジア像の地平を開くことができる。《制作年代の検討》極楽寺本を遼代仏教説話受容上に位置付けるために、制作年代の特定もまた肝要な作業である。現時点では13世紀後半と考えているが、様式比定を行うにあたって多少制作年代が前後することも想定している。極楽寺本には一部十王、獄卒、阿修羅道部分に未習熟な隈が用いられるほかは、宋風描写はほとんど用いられず、肥痩のない細線や濃彩により全体に平明なやまと絵的描写を基調とする。人道場面は小さいながらも的確な形体把握により人間模様や山水を闊達に描き出している。図像にやや硬さの見られる冥府や地獄の描写よりもむしろこうしたやまと絵情趣を描写することに、この絵師たちの本領があると想像される。また霞を多用した家屋の配置や空間構成は大画面掛幅縁起絵に見られるものと類似し、また霞の形は形式化しておらずやや古様を残す。以上のことを踏まえ、現時点では鎌倉期後半制作の聖徳太子伝絵や法然上人伝絵等の諸本との比較を予定しているが、なお比較対象の検討を要する。まだ詳細な作品比較を試みていないため、確定的な制作年代についての明言は避けたい。しかし12世紀後半に輸入の始まる南宋の十王図に見られる図像形式を踏襲するものの、その陰影や峻などの表現描写の模倣にまでは至っていないことも、この絵師の主たる制作域が本格的な仏画ではなく、大画面掛幅縁起絵にあったことを示す可能性がある。もしくは意図的に宋風描写を排除した可能性も考慮する必要があるかもしれない。―83―

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