集、整理し、分析することで、今後行われるべき発展的研究の基礎を整えることを目的とする。周延の画風研究については、1970年に吉田漱氏と千頭泰氏が総目録の作成、作品の特質や版元について資料を提示された以降は、長らく研究が進んでいなかった。近年ではブルース・コーツ氏、鈴木浩平氏による研究や、各地での展覧会開催によって周延に対する関心は高まりつつあるが、同時代の芳年や清親、国周らに比べるとその蓄積は極めて少ない状況である。以下に本研究の目的と構想を三点に分けて述べる。第一に、多作であった周延の画業の時期区分について考察を行う。周延は、明治の浮世絵師の中でも作画量が多く、取り組んだジャンルは美人画、戦争画、役者絵、歴史画、児童画、御所絵などと幅広い。これまでの研究では、画業を三期に分ける見解が概ね定着しているが、文久~慶応期の作品の位置づけや、『千代田の大奥』、『時代かがみ』、『真美人』といった美人画の代表作の分類については複数の見解に分かれている。まずは前述の吉田氏、千頭氏の目録を下敷きに作品情報を収集し、画風の変遷及び時期区分を再検討する必要がある。この目録についても、吉田氏自身が未完成である旨を記していることから、調査を基に更新する余地がある。第二に、画風の成立過程における国周や芳年からの影響についての考察を行う。修業期における周延は、まず溪斎英泉の門人に師事し、その後歌川国芳、国貞、そして国周に学んだことが知られている。師との関係については伝記的考証がなされてきたが、より構図や形態に則した図像的観点からの考察が必要である。特に年齢の近い国周に対しては、画業初期より学習の形跡が明らかであるが、『千代田の大奥』の流行後は、国周がこれに追随するように三枚続の『葵艸松の裏苑』を刊行している。両者の師弟としての関係性や双方向への影響関係については詳細な検討が必要である。さらに、歴史画においては同時期の芳年とも図像を借用し合っていることが指摘できる。国周や芳年との比較検討により、周延の画風の形成過程や独自性、そして明治浮世絵師の中での位置づけを明らかにすることを目的とする。第三に、筆者は周延の作品に多くの子どもが描かれていることに注目する。これまでの先行研究では、周延の作品には得意とする美人画以外にも女性の姿が多く描かれていることが指摘されてきた。ジョシュア・モストウ氏や日野原健司氏は、歴史画における女性の姿が同時期の月岡芳年による『月百姿』等と比べて数的に多いことを述べている。そこで子どもの姿にも注目してみると、『東錦昼夜競』や『雪月花』とい― 81 ―
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