鹿島美術研究 年報第34号
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 鎌倉時代の文殊菩薩像の展開と信仰に関する研究展開に対する陶芸界の反応をつぶさに考察することは、本運動の様態を、産業/装飾芸術の1プレイヤーである「陶芸」の目線に立って、陶芸界の側から逆照射して検証することにもなり、従来の世紀末芸術研究に一層の厚みをもたらすことができると考える。研 究 者:慶應義塾大学大学院 文学研究科 後期博士課程  増 田 政 史本研究は、鎌倉時代以降の南都における文殊菩薩群像の造像と信仰について総合的な考察を行うものである。文殊菩薩群像は五台山文殊として知られ、平安時代に中国から受容された。日本においては鎌倉時代以降、にわかに作例が増加するが、これまでその体系的な研究はなされていない。鎌倉時代の特に南都において、文殊菩薩群像の作例にはいくつかの宗教集団による造像が確認されているが、個々の研究に終始しており、それらの間にある関係性や影響の状況についてはなお検討の余地がある。南都における文殊菩薩群像の造像に関係する宗教集団を考えるとき、第一に、南都浄土教における造像が挙げられる。鎌倉時代の文殊菩薩群像の嚆矢には奈良・安倍文殊院文殊五尊像があり、この作例は東大寺の南都浄土教者たちによる可能性が考えられる。南都浄土教は主に東大寺関係の僧侶たちによる信仰で、東大寺の宗旨である『華厳経』に基づく浄土信仰である。その『華厳経』において文殊は特に重要な尊格であるため、南都浄土教でも文殊信仰が存在していた。また東大寺においては文殊菩薩群像の請来者と目される奝然(938-1016)の存在は重視すべきで、安倍文殊院像は東大寺や『華厳経』の伝統に基づく造像である可能性が考えられる。第二に、東大寺勧進聖を務めた重源による活動も看過できない。重源は五台山文殊すなわち文殊菩薩群像に対する憧憬を有しており、上述の安倍文殊院像においても結縁者として名を記しており、その造像の遂行に大きな役割を果たしていたであろうと推測される。第三に、鎌倉時代後期に叡尊や忍性らが中心となった西大寺系真言律宗寺院における文殊菩薩群像の造像は注目すべきである。西大寺や真言律宗寺院に関係する文殊菩薩群像の作例を確認してみると、奈良・西大寺像、同・般若寺旧本尊像(現存せず)― 84 ―

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