鹿島美術研究 年報第34号
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 アルテミジア・ジェンティレスキのナポリ時代におけるトスカーナ性などがある。以上のように、鎌倉時代の文殊菩薩群像の造像には、それぞれ南都における重要な宗教集団によるものが多く存在するが、その宗教集団間の関係性を検討することは、文殊五尊像の展開を体系的に理解する上で重要な課題と言える。そのためには、鎌倉時代の文殊菩薩群像の各集団における文殊信仰や作例を検討した上で、各集団の関係性を考察する方法が有効である。具体的には、まず南都浄土教すなわち東大寺における文殊信仰、重源ら浄土信仰集団における活動、西大寺系真言律宗寺院における作例を詳細に検討し、その上で各集団の関係性を探る。具体的には、南都浄土教者たちと重源は密接な関わりを有していたことが知られ、また重源はのちの叡尊・忍性らに信仰・教学面で影響を与えたとされ、そして忍性は若き日に安倍文殊院に参詣したことが史料から確認できる。このように各集団間には既にいくつかの繋がりを確認できており、それを新たに文殊信仰という視点から読み解くことで、彼らが造像した個々の文殊菩薩群像の意義と信仰を体系的に結び付けることが可能と考えられる。研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程  川 合 真木子意義と価値本研究では17世紀イタリアを代表する女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1654以降)の後期画業を取り上げる。彼女はロンギによる再評価(Longhi 1916)以降、父オラツィオ・ジェンティレスキと共に、カラヴァッジェスキとして認知されてきた。ローマに生まれたアルテミジアは、フィレンツェ、ヴェネツィア等で活動した後、晩年はナポリを拠点とした。多くのカラヴァッジェスキがそうであったように、アルテミジアもまた、晩年にはカラヴァッジズムから離れていく。従ってこれまで専らカラヴァッジェスキとして語られてきたアルテミジアの晩年、つまりナポリでの制作活動については、画家の個別研究において最も研究の余地が残されている部分である。これまで性格づけることが必ずしも容易ではなかった彼女の晩年を、「トスカーナ性」という観点から再考することが本研究の目的である。またこの考察を行うことに― 85 ―

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