鹿島美術研究 年報第34号
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 東密における焔魔天曼荼羅の成立とその受容たどる展覧会を企画実施したいと考えている。研 究 者:昭和女子大学 総合教育センター 助手  樋 口 美 咲研究の目的・構想焔魔天は古来インド神話に死を象徴する神であったが、後に仏教に取り入れられて、地獄を司る密教尊となった。この焔魔天を独尊で描いた画像や、焔魔天の周囲に眷属を描いた焔魔天曼荼羅が、焔魔天供の本尊として懸用される。焔魔天供には除病や延命、安産、息災が期待され、日本においては特に院政期に隆盛した(註1)。この焔魔天曼荼羅は、忿怒形の焔魔天(王)を主尊とした19尊からなる台密系と、菩薩形の焔魔天を中心にした11尊で構成される東密系の2種類に大別される。これまで台密系焔魔天曼荼羅は、主尊や諸眷属の像容、成立背景、様式などの研究が諸先学により進められてきた(註2)。一方、東密系焔魔天曼荼羅については、個々の作例を心覚(1117-1180)著『別尊雑記』に掲載される白描の焔魔天曼荼羅図(註3)と比較し、その構成が共通することを指摘する他は、作品解説に留まり、成立過程や、眷属諸尊の図像に関する問題は残されたままとなっている。そこで本研究では、以下3点の問題に取り組むことで、東密系焔魔天曼荼羅の成立とその受容を明らかにしたい。まず第一は、2種ある東密系焔魔天曼荼羅の相違に関する問題である。東密系焔魔天曼荼羅は大きく2つに区別できる。主尊・焔魔天が正面を向くタイプ(『別尊雑記』掲載図、現存する絵画作例)と、焔魔天が頭部を右に向けるタイプ(『覚禅鈔』掲載図(註4))である。この差異について、これまで積極的に比較検討がなされてこなかったが、諸尊の図像を重視する密教において、その差異は無視できるものではなく、改めて両者の差異が何に依るものかを考える必要があるだろう。そもそも焔魔天について説く根本的な教典や儀軌はなく、東密においては石山内供・淳祐(890-953)の『炎魔王供次第』によって、大旨が習伝されてきた(註5)。しかし焔魔天供を修する際、東密の中でも流派ごとに作法が異なる。作法だけではない。焔魔天供の修法のなかで読み上げられる祭文、表白、都状といった文書は、いずれを採用するかによって道教の影響の強さを知り得るが、これも流派によって区々で― 88 ―

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