ある。他にも焔魔天供と北斗供との関係が、殊更に強調されるのは小野流のみであり、他流派には見られないといった相違もある。これら諸流派の差異と2種の焔魔天曼荼羅にある図像・図様の差異は無関係とは思えず、東密諸流派の著述を精読することで、東密小野流における焔魔天供の独自性が、図像や図様に反映された可能性について検証したい。第二の問題は、諸眷属の図像典拠である。主尊・焔魔天は、空海が請来した両界曼荼羅の系統を引く現図曼荼羅に図像の典拠が求められる。これに対し眷属は、現図曼荼羅に先立って成立した胎蔵図像や胎蔵旧図様、その折衷のような図像を採用する。図像の典拠が複数にわたり、あえて古様を採用した理由は検討する価値があるだろう。さらに、現図や胎蔵図像、胎蔵旧図様といった曼荼羅中には描かれない、中国王侯風の官服を着た眷属らが東密系焔魔天曼荼羅に混在する。これが第三の問題である。この点に関して、既に閻魔王を筆頭する十王や道教の思想の影響が指摘されている(註6)。但し、焔魔天曼荼羅に表された官服姿の眷属と十王図や道教美術との図像的考察は、未だ十分になされているとは言えない。第二、第三の図像典拠に関する問題は、東密における焔魔天曼荼羅の成立背景を物語るものである。現存する東密系閻魔天曼荼羅の絵画作例の実見に加え、その成立が10世紀まで遡り得るとされる台密系焔魔天曼荼羅(註7)や、修法本尊として焔魔天供と同様の利益が期待された星曼荼羅、北斗曼荼羅といった星宿関係の絵画作例との比較検討が基本調査となろう。また上述した通り、焔魔天には根本となる教典や儀軌がなく、東密では淳祐の『炎魔王供次第』が重んじられていた。しかしこの次第に各尊の像容に関する記述はない。そこで東密の事相書や図像集に目を向ければ、『炎魔王供次第』の他にも、像容や眷属については『大毘盧遮那仏神変加持経』や『大毘盧遮那仏神変加持経疏』に、諸尊の印言については『胎蔵四部儀軌』や『大毘盧遮那経供養次第法疏』に説かれており、東密の僧らはこれらを参照していたという(註8)。さらに各眷属についてもそれぞれに引用する経典や儀軌が明記されている(註9)。これら作品調査の比較検討と経疏の精読によって、東密系焔魔天曼荼羅の成立過程で受けた影響を探っていきたい。本研究はこれまで東密系焔魔天曼荼羅が『別尊雑記』掲載図との比較に終始し、淳祐『炎魔王供次第』に依存して成立背景を明らかにしてこなかった現状を打破する契機となると考える。― 89 ―
元のページ ../index.html#109