鹿島美術研究 年報第34号
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一方で、明るい空や水の表現など、源吉の作品は臨場的で平明な写実表現を有している。晦渋な色調で、またしばしば定型的な色彩表現となりがちな由一の風景画と比較するとそれは明瞭である。これには、明治22年に来日した英国の画家アルフレッド・イーストによる写生画の影響も考えられる。源吉作品の近世的・名勝図的な性格と平明な写実という二面性は、源吉の自覚的な選択であったと考えられる。源吉は西洋画に加え和漢画の教養を豊富に持っていた。源吉が助手を務めた由一の画塾・天絵舎の主な門人には日本画家も多く、源吉が主幹を務めた『臥遊席珍』では和漢洋の絵画が並列に論じられている。そもそも「臥遊」自体が山水画の理念であった。また源吉は絵画における日本「独立」(固有)の「趣味」や「様式」は、西洋絵画を基礎としたうえで、特定の様式に偏らず多くの人が受容し得る平明なものであるべきだと考えていた。源吉の明治美術会における講演には、当時の美学や日本絵画の独自性に関する議論、また当時広く読まれていたレーノルズのロイヤルアカデミーにおける講演が反映されている。ただし、レーノルズがミケランジェロの荘重様式を重視したのに対し、源吉は平明で万人が受容し得る様式を作ったラファエロの方を評価している。もっとも、源吉の平明な表現は“風呂屋の背景画”にみる平板さにも通じている。その原因としては、父・由一の影にその業績が隠れがちであったことに加え、西洋的写実の受容を軸とした近代日本美術史においては、その表現が西洋的な写実表現の原則からときに逸脱し、平板な表現に陥っているようにみえるからであろう。小山正太郎や本多錦吉郎ら同時代の作家による、遠近法的構成や光と空間の統一的表現と比較するとそれは明らかである。むしろ源吉作品の特長は、複数の事物や視点が組み合わされた構想的・名勝図的な景観表現に見出される。例えば《天華岩》や《立谷川 対面石》(明治44年)では、実際には同時に視野に入らない景物を組み合わせ、山寺の歴史を物語る名勝図を生み出している。その画面構成は山水画や浮世絵など、在来絵画の様式に近いものがある。― 32 ―

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