鹿島美術研究 年報第34号
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③ 1880年代におけるクロード・モネと美術市場について近年の先行研究としては、2006年に伝記を中心に画業がまとめられ、年譜が作成されている(『秋田美術』第42号)。2008年には穗庵が学んだ秋田の画人に関する論考(『秋田美術』第44号)、2009・2010年には秋田県立近代美術館所蔵の作品から表現の推移を検証する論考が(『秋田美術』第45号、『秋田県立博物館研究報告』第35号)まとめられている。ただこれら論考では、京都時代の絵画学習の詳細や、穗庵の写生の実態、中央画壇への進出の経緯、上京中の活動の詳細、同時期に活躍した画家の作品との比較など、調査が十分になされていない部分も多い。先行研究を踏まえたうえで、上記の内容を考察することは、穗庵自身の画業を再考するだけでなく、明治初期日本画壇における画家の活動を理解するための一例を提示するものとして、近代の美術史研究に貢献することができると考える。【構想】 明治10年代から殖産興業の目的で開催された展覧会では、古画の展観だけでなく、徐々に「新製品」の絵画展も行われるようになる。そして東京美術学校開校に象徴されるように、明治20年代からは積極的に美術教育を行うことで新しい日本絵画を創造する時代へと推移する。それと並行するように近代的傾向の一つに挙げられる「写実性」を伴う絵画は明治20年代には一応の完成をみたということが指摘されている。穗庵が東京での仕事を得て、上京して本格的に日本画家として絵画を描くのはまさにこの過渡期である。近世までの「絵師」としてのあり方を選ばず上京するにいたった背景や、その表現、画業を研究することは、明治初期における「画家」像の形成、あるいは近代画壇の構造を考える一助となるものと思われる。一方で興味深いのは地元での活動である。穗庵は秋田で審査付きの展覧会を開催しており、地方画壇の興隆に貢献しようとした様子がうかがわれる。穗庵の業績を探ることは、明治初期の画家が果たした中央・地方それぞれにおける社会的意義の考察にもつながると考える。研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士課程後期課程  亀 田 晃 輔本研究は、1880年代におけるクロード・モネの評価形成過程そのものを考察の対象とし、モネ及び評価形成に関与した画商、美術批評家等の絵画市場戦略の分析を目的とする。モネ研究者であるポール・タッカーは、彼の80年代を、苦しい模索の時期、あるい― 37 ―

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