鹿島美術研究 年報第34号
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はジョルジュ・スーラに代表される新印象主義の科学的技法への反発とともに完成させた「連作」作品の生成過程として見なしており、評価形成を巡るモネ自身の戦略に関しては、ほとんど言及していない(“Monet and the challenges to Impressionism in the 1880s”, Monet in the ‘90s, 1989, pp. 15-37)。モネの80年代は、79年の第四回印象派展の失敗が動機になったであろうサロン出品という象徴的行為から始まる。すなわちモネは、グループとしてではなく、個人として絵画市場に打って出ることを決めたのである。このことは彼にとって、作品販売を目的とした展覧会を画商と共に企画し、さらにそれに好意的な批評を寄せてくれる美術批評家との関係を構築させなければならないことを意味した。一般に「画商=批評家システム」と呼ばれるこの三者結託の構図が、モネの画業の中で本格的に形成され、それまで以上に意義深くなるのが80年代なのである。したがって、傑作を生み出さなかったと研究者から等閑視されてきた傾向にあるこの年代こそ、名声を博すことになる90年代以降の「連作」を準備した重要な時期であると考えられる。この研究の欠落は、なぜ90年代に、斬新な作品であったにせよ「連作」が急に評価されたのかを明らかにすることを不可能とする。以上のように筆者は、モネの80年代を重大な転換期と見なし、「画商=批評家システム」の具体相を明らかにし、これを通じてモネの80年代における画業の分析を行う。分析の中心となるのは、三者結託の構図が結実する個展、合同展等の展覧会である。印象派展から距離を置いたモネは、サロン出品の後に個展を開催し始め、中心的な取引をしていた画商デュラン=リュエルだけではなく、ジョルジュ・プティ画廊やブッソ・ヴァラドン商会などの画商、画廊とも取引するようになる。F. Fowle, “Making Money out of Monet: Marketing Monet in Britain 1870-1905”, Monet and French Landscape: Vétheuil and Normandy, 2006, pp. 141-158 で言及されているように、モネは特定の画廊で作品を専売させることを望まず、契約金を画商間で競わせてつり上げた。このことは、当然ながら販売価格にも影響を与えることとなった。美術批評家との関係については、モネが自らの個展に好意的な批評を寄せた批評家に礼状を送るなどして関係を密にし、美術批評に書かれている称賛箇所に合わせて描法を変化させていったことも垣間見える。資料を悉皆調査することでこれらの状況を明らかにしつつ、80年代に開催されたモネの展覧会(1880, 1883年の個展、デュラン=リュエルによるアメリカでの展覧会、プティ画廊での国際絵画展、1889年のモネ・ロダン合同展等が挙げられる)の内実にせまり、一つずつ仔細に調査していきながら評価形成の動向を分析する。― 38 ―

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