鹿島美術研究 年報第34号
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⑭ 北部九州における神仏習合造像をめぐる研究 ―平安時代前期を中心に―研 究 者:福岡市美術館 学芸員  宮 田 太 樹本研究の意義は、近年の飛躍的な研究の進展に伴って明らかになりつつある、北部九州における仏像の様式変遷および独自の造形伝統を、官僧の地方における活動―より具体的に言えば東大寺戒壇院の戒師を出自とする観世音寺講師の活動―の中に位置づけることにあるが、このことは、地方において推進された神仏習合の具体的な様相を考える上でも、極めて有力な視座をもたらすことなろう。神仏習合を在地の荒ぶる神への授戒と捉える見解があるが、戒壇院を擁していた観世音寺にとっても戒律思想は極めて重要であった。東大寺戒壇院の戒師を出自とする観世音寺講師が、授戒を通して在地の神々を護法善神化していったことは十分に考えられる。浮嶽神社の木彫群の成立背景として有力視されている、藤原広嗣の霊の善神化もまた、観世音寺講師の活動の一環として捉えることができる。藤原広嗣をはじめとする九州の在地の神々は、単独で史料に見えることはほとんどなく、八幡神や神功皇后といった国家神と共にあらわれることが多い。在地の神々の護法善神化は、こうした高位の神々を軸としつつ、それ以外の神々を序列化するための企てであったと捉えるべきであろう。したがって、観世音寺講師の神仏習合造像を通して得られた知見の多くは、他の地域での造像にも敷衍可能と考えられる。とりわけ、観世音寺と同じく戒壇院を擁していた下野・薬師寺を考える際には有益であろう。また、観世音寺講師の活動は、神仏習合の大きな原動力の1つであった八幡信仰の展開を考える上でも看過することはできない。本研究で主に扱う9世紀は、八幡神と応神天皇を同体とみなす考えが定着した時期にあたり、天皇をはじめとする権門や密教僧の関与のもと、八幡三神像が制作されてもいる(高橋早紀子「東寺八幡三神像の制作背景に関する考察」『美術史』177号 2014年)。従来、あまり注目されていないが、中央が関与した八幡神への奉幣などに際して、大宰府官人や観世音寺僧が仲介している例は少なくない。天長年間(824~834)に行われた、八幡神に対する一切経の写経事業がその好例で、観世音寺講師であった恵運らによって主導されたと考えられている(川尻秋生「「神護寺五大堂一切経目録」の性格」『日本史研究』612号 2013年)。八幡信仰については、既に豊かな研究の蓄積があるが、これらを観世音寺周辺の造寺造仏との関わりにおいて、捉えなおすことで、中央と地方、双方の視点を組み入れた― 53 ―

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