などの作例に見られる柔らかな陰影によって肉付けされた人物像や、ブラマンティーノ(1456年頃-1530年)の絵画に描かれた建築パースのように緻密に計算された線遠近法によって描かれた建築物などを指摘することができる。ロンバルディア地方で活躍したこれらの芸術家からの強い影響を残す一方で、「磔刑図」の背景に描かれた両端の小高い崖の間に見える湖畔風景には、イタリア中部ウンブリア地方の絵画からの影響も見られる。ローマにおけるフランシスコ会の本拠地サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂には、アントニオ・ダ・モンツァが所属していた記録が残されており、この教会の付属修道院における写本制作の装飾画制作を担当していたと考えられる。上述のウンブリア地方の絵画に影響を受けた風景表現は、当時のローマの芸術界において最も成功した画家ベルナルディーノ・ディ・ベット、通称ピントリッキオ(1456年頃-1513年)からの影響だと考えられ、アントニオ・ダ・モンツァのローマ滞在期に影響を受けたものと考えられる。筆者はローマ大学ラ・サピエンツァに提出した博士論文『Produzione seriale del Pintoricchio e della sua cerchia(ピントリッキオとその周辺画家による聖母子像制作)』において、同時代のローマ絵画の覇権を握っていたピントリッキオの小型聖母子像の研究を行った。ピントリッキオは、ヴァチカン宮殿ボルジアの間やサンタンジェロ城などのフレスコ画を制作したように、教皇アレクサンデル6世に重用された画家であり、15世紀末のローマ芸術界において重要な役割を果たしていた。アントニオ・ダ・モンツァの写本制作における様式的な多様性、また図像における特異性を考察することで、アレクサンデル6世周辺の芸術的な環境が異なるバックグラウンドを持つ芸術家同士の接触の場となっていた具体的な一例を示すことができる。また、大英図書館が所蔵するボナパルテ・ギジリエーリの時祷書におけるピエトロ・ペルジーノ(1448年頃-1523年)の「聖セバスティアヌスの殉教」や、アミーコ・アスペルティーニ(1474年頃-1552年)の「降誕図」の作例に見られるように、15世紀ルネサンスの画家にとって写本装飾画制作は芸術活動のひとつであったが、日本におけるルネサンス研究ではあまり重要視されていない。本研究を行うことで、日本におけるルネサンス美術の研究対象に多様性を持たせることができる。― 58 ―
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