⑲ 日本陶磁における銀彩の美術史的意義について題材や画材、技法の特徴などを調査する。これらの点から、東アジア滞在がノルデの絵画に与えた影響を考察するが、さらに、ノルデの日本観・東アジア観を当時のドイツの日本観・東アジア観と比較して、ノルデの日本受容・東アジア受容も考察する。ノルデは日本の美術に関しては、版画や工芸を引き合いにだして、趣味的な領域に留まりあまり重要ではないとし、中国の美術のほうが重要であると述べているが、同時代の他の言説とも比較しつつ、どのようにしてノルデの日本観・東アジア観が形成されていったかを検証する。そして、蓄積の豊富なノルデのオセアニア滞在とプリミティヴィスムの研究を踏まえつつ、ノルデの異文化受容の在り方を考える。本研究により、ノルデの絵画の展開に関して新たな側面から考察を加え、彼の絵画の特質を形成する要因のひとつを提示することを試みるとともに、20世紀初頭のヨーロッパの画家の東アジア滞在とその影響の一例を示すことで、当時の東アジア受容史構築の一助を試みたい。研 究 者:東京国立博物館 主任研究員 三 笠 景 子銀彩に視点を置く意義陶磁器の歴史を牽引してきた中国陶磁において、表面に金泥もしくは金箔を用いて金彩を施すことは、陶磁器生産が進展した唐時代より認めることができる。しかし銀を用いた絵付けや装飾はほぼみられない。その理由は、恒久的に変化することがない金とは異なり、空気にふれるだけで直ちに黒く変色してしまうという銀特有の根本的な性質が好まれなかったためと推測される。これは、近世に中国磁器生産の影響を受けて、製陶が盛んになったヨーロッパでも同じである。しかし、銀彩を積極的にとり入れた日本の陶工、野々村仁清が活躍したとされる17世紀の京都では、陶磁器だけでなく漆器や染織品、そして屏風、襖といった調度にも広く銀の装飾をみとめることができる。つまり、日本には銀が変化することを前提で、装飾に用い、それを受け入れた特殊ともいえる礎があったということである。一方、同時期に日本で初めて磁器を生産し、その後一大磁器窯として世界的に名をなした九州肥前の伊万里焼では銀彩はごく一時期しか行なわれておらず、その後定着― 60 ―
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