鹿島美術研究 年報第34号
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 谷文晁を中心とした関東南画(文人画)における中国絵画学習の研究―清代福建様式の影響を中心に―的立場の変遷を明らかにする。奈良・西大寺での造仏が知られる仏師善慶のように、もと慶派傍系仏師と考えられる仏師が正系に名を連ねることを可能にした建長年間頃の造仏界の状況を解明することは、その後の三派仏師がどのように結びついて活動したかを考察するうえで大きな意義を持ち、鎌倉後期の仏師作品の作者比定や所属流派の比定をおこなう際の基礎資料として大いに活用されることが見込まれる。研 究 者:名古屋市博物館 学芸員  横 尾 拓 真本調査研究の目的は、関東南画(文人画)の領袖と言われる谷文晁(1763-1840)および文晁一門の特定の作品について、清代の福建地方で描かれた中国絵画の影響を明らかにすることである。その成果を前提に、作画における谷文晁の創意工夫を読み取ること、文晁一門を中心とする関東南画(文人画)の画風の位置づけを再検討することを目指す。中国の文人画論においては、禅宗の法統の区分に倣い、絵画を「北宗画」と「南宗画」に分類、「北宗画」を忌避すべきもの、「南宗画」を尊び鑑賞すべきものとする。江戸時代の中期以降、この種の文人画論に影響を受けて、また新来の明清画に刺激を受けて、日本においても文人画の制作を志す画家が現れる。京都や大坂を中心に活躍した画家たちは、比較的この「尚南貶北論」を重視し、「南宗画」に相当するであろう画風を探求、その再現を目指した。一方、江戸において、文人画を志向した谷文晁は、「尚南貶北論」に固執せず、広く諸派を学ぶことの重要性を喚起した。その為、文晁一門の人々は、自らの画風を「南北合法」「南北一致」と自称したが、現在は文晁の作品自体もこの種の曖昧な言葉で理解されることが多い。実際に、様々な主題を、色々な様式で描きこなした職業画人・文晁を説明する上で「南北合法」は便利な言葉である。ただし、画論における「南宗」「北宗」の定義自体、現実の様式とは乖離する恣意的なものであることに注意したい。加えて、その議論を輸入した日本における理解の実情を考えると「南宗」、「北宗」、あるいは「南北合法」の定義を明確化することは不可能である。つまり、現代において文晁の画風を「南北合法」と説明するこ― 64 ―

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