鹿島美術研究 年報第34号
85/113

 国画創作協会の画家におけるイタリア美術受容をめぐる研究―吹田草牧を中心として―とは、ほとんど具体的な説明になっていないと思われる。基礎的な作業として、文晁個々の作例にあたり、具体的な影響源を想定して、その位置づけを明確にしていく必要がある。もちろん、明末に活動した画家・藍瑛の影響、あるいは伝呉道玄画(現在は李唐の作とされる)の影響を詳細に論じ、「南北合法」の具体的様相を明らかにする先行研究は存在する。しかし、文晁の多種多様な作品を説明するには未だ不十分である。本調査研究では、清代の中頃、中国は福建地方で描かれた山水画を事例に挙げ、特定の文晁作品、さらには文晁の弟子たちの作品への影響を論じることで、新たな事例を加えるつもりである。さらに本研究では、福建地方の作品がどのような経緯で日本にもたらされ、またどのような嗜好のもとで受容されたのか、文晁の作例をもとに検討を進める予定である。歴史的に福建地方は、日本と政治的および文化的結びつきが大変強い地域であった。黄檗美術の例に顕著なごとく、日本美術史においても影響の源泉として古くから注目されることの多い地域である。一方、谷文晁や関東南画(文人画)との関係においては、ほとんど顧みられることが無かったと言っても良い。本調査研究は、福建地方を中心とする中国と日本、両者の文化交流の一様相を明らかにするものである。研 究 者:関西大学大学院 東アジア文化研究科 博士後期課程本研究は、近代日本における西洋美術の受容に対する研究が、フランス美術に偏重していることに問題意識を持ち、国画創作協会の画家たちにおけるイタリア美術の受容とその変遷を明らかにすること目的とする。ここでは特に、吹田草牧(1890-1983)に着目したい。本研究の意義は、第一に、先行研究の少ない吹田草牧の画業について、イタリア美術の受容という観点から、文字資料、絵画資料の調査研究を行い、研究を深化させることである。吹田草牧の作品におけるイタリア美術の影響に関する論文はない。しかし、敬虔なクリスチャンであった兄の影響により、草牧は十七歳で洗礼を受けたこと、日曜学校で教師を勤めたこと、また初めは関西美術院で洋画を学んだことなどから、― 65 ―豊 田   郁

元のページ  ../index.html#85

このブックを見る