草牧がイタリア美術に興味を持っていたことは明白であり、大正期の日本画家によるイタリア美術の受容の考察に適した背景を持つ。第二に、草牧は、1922年(大正11)入江波光と国画創作協会顧問である中井宗太郎夫妻らとともにヨーロッパへ出発している。1921年(大正10)に先立って渡欧していた麦僊は、1923年(大正12)5月までパリに滞在していた。主要会員らと同時期に滞欧した国画創作協会第二世代の画家がいないことから、草牧の画業は、第一世代との比較研究において重要な要素として位置付けられよう。草牧は膨大な書簡や日記、ノートを書き残しており、そのうち、滞欧期の書簡と日記の一部が公開されている。つまり、草牧を研究することは、麦僊や波光らの滞欧期の行動を客観的な立場から考察することに繋がる。さらに、国画創作協会の画家について、第一世代から第二世代まで、イタリア美術の受容とその変遷を考察し、彼らがイタリア美術に関心をもった背景を検討する手がかりとなり得る。以上の考察は、大正期の日本画家がどのように西洋美術を受容したのかという問題に対して、従来の研究とは異なる視点を加える価値を持つ。草牧は、帰国後の1923年(大正12)11月、関東大震災により中止された帝展に代わって開催された日本美術展で、イタリア風景を描いた《ポジリポの漁家》を出品した。1928年(昭和3)第7回国展に出品した《醍醐寺泉庭》は、彩色、点描の使用に、麦僊の《舞妓林泉図》と共通する要素が確認できる。渡欧後の草牧はイタリア中世絵画の感化を経て鮮やかな色彩表現へと移行したことが指摘される。これらの二点を中心とする草牧作品について、調査研究を行い、滞欧で実見した作品が草牧の日本画制作に果たした役割を検討する。そのために、滞欧期の書簡や日記といった文字資料に基づき、実見した作品とそれらに対する評価や感想を整理する必要がある。草牧の滞欧期に関する文字資料としては、滞欧期の日記が、『京都国立近代美術館ニュース「視る」』において、1992~2015年(平成4~27)の93回におよぶ連載により一部公開されている。また、滞欧期の書簡が、田中日佐夫氏により整理され、「吹田草牧のヨーロッパからの書簡」として、『美學美術史論集』第八号第二部(1991年1月)に掲載されている。本研究では、上記の資料に基づき、第一に、訪れた時期と場所、実見した作品とそれらに対する評価や感想を整理する。第二に、イタリア絵画への関心の要因と理解、またその関心や理解が西洋画理解及び東洋画理解に与えた影響を検討する。その際、イタリア美術以外の西― 66 ―
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