ヴィンチェンツォ・デ・ロッシによる「ヘラクレスの泉」の構想の解明第二に、上述した寒山拾得関連史料を参考にテクスト中に示された寒山拾得イメージを整理する。まず、寒山拾得イメージの原点である『寒山詩』自体の分析を行う。また、燈史類に記された寒山拾得説話などにみられる要素を抽出し、それぞれの傾向を検討する。特に、頌や賛に関しては、時に『寒山詩』や燈史類に記述されていない要素を見ることができ、画題イメージの形成と展開を考察する上で重要な役割を担っている。以上のように、絵画作品と史料の双方を網羅的に収集し分析した上で、白隠慧鶴(1686~1769)や仙厓義梵(1750~1837)といった禅僧、また町絵師ではあるが、白隠に参禅していた池大雅(1723~1776)の寒山拾得図を中心に考察を行うことで、江戸時代中期の禅林周辺における寒山拾得イメージを明らかにしたい。寒山詩の注釈書『寒山詩闡提記聞』を著した白隠の寒山拾得図には、芳澤勝弘氏の言う「軸中軸」を見る寒山拾得や毬栗を箒でほじくる寒山など、それまでの寒山拾得図には見られない図様が見られる。仙厓の作品にも盃で酒を飲む寒山拾得など新たな寒山拾得の形象が見られる。また、大雅の《寒山拾得図》(京都国立博物館蔵)は従来、指墨で描かれたということが重視されてきたが、画と同様に指墨で書かれた賛は北宋の禅僧・丹霞子淳(1064~1117)による頌を写したものである点も興味深い。大雅のものだけでなく、白隠・仙厓の寒山拾得図にも、そのほとんどに賛が付されており、彼らの作品を画と賛の両面から分析し、寒山拾得図の系譜における位置づけを行うことで、江戸時代中期における禅宗画題研究が一歩前進することになるだろう。研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程 友 岡 真 秀本研究はまず、依然として網羅的な研究がなされていない彫刻家ヴィンチェンツォ・デ・ロッシを取り上げることで、フィレンツェのマニエリスム彫刻に関する研究史における欠落を埋めようとするものである。デ・ロッシに関する研究は、1998年のR.シャラートの著作が基礎研究として最も有効であるが、これはデ・ロッシの活動の前期すなわち修業時代から単独制作を請け負うようになるまでの期間を過ごしたローマからフィレンツェへ帰還するまでの時期のみを考察対象としている。それゆえ、師であるバンディネッリ没後のフィレンツェにてコジモ1世に仕えるようになった1561― 68 ―
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