鹿島美術研究 年報第34号
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 エミール・ガレとドイツの博覧会―ミュンヘン、ダルムシュタット、フランクフルトを中心に―後水尾天皇の下命で貝合の出貝を描いた記録(『中院通村日記』元和2年3月13日条)の存在が指摘されている。このことから、大量生産を行う絵屋が存在した一方で、土佐派や狩野派に属する歴とした絵師も、貴顕から依頼があれば工芸的装飾を請け負っていたことが分かる。したがって、信尹の出自や能書としての名声を勘案するなら、その料紙制作に著名な絵師集団が関わっていた可能性も皆無ではない。ならば、屏風素地の絵画と近似する図様が長谷川派の作例に認められることも注視すべき事象となろう。例えば、右隻の土坡に豊かに咲こぼれる菊花は、旧祥雲寺障壁画の等伯筆「楓図」(京都・智積院蔵)の下草に近しい表現があり、また左隻の雲霞と静かに波打つ波濤も、同筆「波濤図」(京都・禅林寺所蔵)に通じる表現である。また、信尹が懇意であった大徳寺や禅林寺に長谷川派の作例が際立って多く伝存していることも看過できない。こうした事柄を勘案した上で、本屏風の書画の実態と周辺事情の解明に取り組み、ひいては本屏風の史的意義の検討へと繋げたいと考えている。研 究 者:北海道立近代美術館 学芸員  松 山 聖 央本研究の目的は、アール・ヌーヴォーを代表する工芸作家エミール・ガレのドイツにおける博覧会活動を明らかにすることである。フランス北東部のナンシーを拠点に、ガラスや家具などの分野において芸術性の高い作品を数多く生み出したガレの活動は、しばしば1878年、1889年、1900年の三回のパリ万博参加と関連づけて語られてきた。とりわけ1900年パリ万博は、家具とガラスの部門でグランプリを獲得しただけでなく、「19世紀諸芸術百年回顧展」や「フランス家具調度品100年美術館」、「装飾芸術中央連名パヴィリオン」等にも出品し、ガレおよびアール・ヌーヴォー芸術の評価が頂点を極めた場であったという点で重視され、先行研究や展覧会でも繰り返し紹介されてきた。しかしその一方で、パリ万博以外の博覧会は見過ごされがちであったという課題がある。筆者は、この1900年パリ万博に先立つ3年ほどの間に、ガレがドイツで開催された博覧会に立て続けに出品していたことに注目している。その詳細は「実施状況」に記― 72 ―

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