載するが、本研究ではその中でも、ドイツのユーゲントシュティールや分離派の中心地であったミュンヘンとダルムシュタット、およびガレが委託販売展を開設し、ヨーロッパの中でも早い時期に装飾美術館が設立されたフランクフルトという三つの都市における出品状況を調査の対象とする。このテーマには、ただその都度のガレの出品歴を明らかにする目的だけでなく、下記のとおり、複数の重要な問題意識が含まれている。第一に、これらの出品状況は上述の1900年パリ万博に直接つながる時期の活動を跡づけるものであることがあげられる。ガレは、1889年のパリ万博ですでに大きな成功を収め、家具やガラスといった工芸品を、芸術作品の域にまで高めようとする独自の思想や作風で広く知られるようになっていたが、1900年に向けて、さらにどのような芸術制作上の展開があったのかということがこれらの博覧会の状況からうかがい知ることができると考えられる。日本の美術館で所蔵されている1890年代のガレ作品には、制作時期が明確ではないものも多いが、今回の調査の対象に同モデルのものが含まれていれば、基本的な作品情報を補完することもできるだろう。つぎに、ガレ自身の経歴を振り返ったとき、若い頃のヴァイマールでの研鑽と普仏戦争敗北による故郷ロレーヌ地方割譲という、ドイツに対して好悪両方の経験を持つ作家が、ドイツでの作品発表にのぞんだ背景にはどのような意図や戦略があったのかという問題がある。たとえばBrigitte Leonhardtはその論考において、この時代のドイツの博覧会には「ドイツらしさ、ドイツ的特質への感覚を励起しようというナショナリズム的な目論みがあった」(in hrsg. von Ricke, Schmitt. 1998.)と指摘しているが、そうした中で、すでにフランスを代表する芸術家となりつつあったガレがどのように位置づけられたのかを知ることは、フランスとドイツという二国間の政治上の関係性の一端を浮かび上がらせることにもなるだろう。さらに、二国間の関係は政治的なものであると同時に、芸術的なものでもあった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは同時多発的に過去の芸術からの決別を目指し、とりわけそれまでいわゆる「小芸術」とされた工芸やデザインの領域を発展させようという機運が高まったが、いっぽうで、国や地域によって掲げられた理念や実際に作品にあらわれることとなった様式や特徴は少しずつ異なっていた。ガレのドイツにおける博覧会活動を、フランスの「アール・ヌーヴォー」とドイツの「ユーゲントシュティール」「分離派」が接した場として大きくとらえることで、双方の― 73 ―
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