「朱印船図屏風」の成立と「船絵馬」への展開についてソグド語などの出土文献史料の研究が進展するにつれ、徐々に明らかにされてきた(森安孝夫『ウイグル=マニ教史の研究』1991)。高昌故城α寺院址出土の刹銘は第一級の出土史料であるが、その文献学的成果がα寺院址の建築・壁画・塑像等の造形資料と関連づけて論じられることは残念ながらこれまで殆どなかった。美術史研究の立場からは、リラ・ラッセル=スミスが敦煌蔵経洞由来の絵画の分析を通じて、ウイグル仏教美術の成立の問題について初めて専著をあらわした(Uygur Patronage in Dunhuang, 2005)。もっとも趣旨上当然ながら、敦煌という西ウイグル王国の周縁の美術について論じたもので、西ウイグル王国の中心地であったトルファン(早くはカラシャール)の美術については多く取り上げていない。ドイツのイネス・コンチャックは、誓願図に関する博士論文(ミュンヘン大学、2011年)の中でα寺院址について言及するが、基準作例としての重要性については殆ど述べていない。本研究は、西ウイグル仏教美術の成立について、美術史研究の立場から、西ウイグル王国仏教の中心地トルファンの実作例に則して論じる初めての試みということができる。西ウイグル王国期回字型寺院に関する最も本質的な考察は、ウイグル語研究者の百済康義によってなされた(1994)。百済は、ベゼクリク石窟第20窟の比丘像銘文の考察を通じて、同寺がトカラ系仏教と漢人仏教を合成・集大成するモニュメントとして企図されていると論じており、近年、橘堂晃一がこの研究を引き継いで深化させている。本研究では、西域仏教の集大成としての回字型寺院の構成が果たして西ウイグル王国仏教成立期まで遡れるか否かを明らかにしたい。研究者:多摩美術大学美術学部教授本研究の目的は、フィラデルフィア美術館が所蔵する「朱印船図屏風」の成立について考察することである。本図には両隻にそれぞれ一艘の朱印船が帆走するさまが描かれているが、船の向きにより右隻は東南アジアに向けて進む往路、左隻は日本に戻る帰路の航行と推定される。朱印船貿易は南蛮貿易とほぼ同時期に盛んに行われたが、鎖国令によって南蛮貿易は寛永16年(1639)に終了し、朱印船貿易はそれに先立つ寛永12年(1635)に終了している。南蛮船の入出港や交易の情景などを描いた南蛮屏風は90件以上現存しているのに対し、朱印船を主題とする屛風はフィラデルフィア―92―木下京子
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