① [短期的な目的]作家(デザイナー)研究が核になる従来のデザイン史記述にあっては、主に(1) 戦後広告・グラフィックデザインの現場が東京に大きくシフトしたことと、(2) 工業デザインではメーカー従業員であるデザイナー個人名が製品に伴わないことの2つの要因から、戦後デザイン史に大阪・関西不在の状況を招いたとの仮説を立てる。そして、まずはデザイン史記述において、作家を中心とすることによる問題点とこの傾向の背景を明確にする。さらに、1950年から80年の大阪・関西のデザイン活動を広告、工業製品、工業化住宅の3分野を横断しながら、実際の制作物、製品と一次資料の調査をもとに記述し、包括的な大阪における戦後デザイン史と日本全体のなかでの影響力、併せてその度合・範囲を検証する。戦後デザイン史再考の試み:大阪1950-1980年風から派生したものと推測されるが、これには南蛮屏風のようなカピタンの上陸場面や南蛮寺までの行列、異国の文物や珍奇な鳥獣などの華やかな場面がない。その代わりに船上の遊楽は南蛮屛風に増して豊富で賑々しい。これは京都・清水寺に所蔵される船絵馬にも共通することであるが、実は万治4年(1661)の年紀のある「弁才船図絵馬」(金峯山寺所蔵)にも共通する。弁才船は国内交易のための船であり、江戸中期以降の船絵馬はすべて弁財船を描くものであるが、それらは類型化し、風俗描写も少ない。しかし、その初例と目される金峯山寺本には豊富な風俗描写がある。京都・清水寺の初期の船絵馬と金峯山寺本「弁才船図絵馬」の交叉するところにフィラデルフィア本「朱印船図屏風」が位置付けられるのではないかと予想するが、その関係を解く鍵は実は細部の風俗描写にあるのではないかと考えている。研究者:大阪新美術館建設準備室主任学芸員目的本研究の目的は大きく以下の2点となる。② [長期的な目的]デザイン史自体のあり方を問う姿勢を持ちながらも、その目的はデザイン史の視点を産業社会史や工学・科学技術史の視点と完全に合わせようとすることではない。その目的は、大学をはじめとした研究機関やデザインを扱う美術館等、デザインと美術の相互影響や境界の変遷を考察し、造形性や様式、―94―植木啓子
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