鹿島美術研究 年報第35号
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代画像を模写した絹本画1点)、計11件の「新様」千手観音像を研究対象とし、従来不明とされてきた図像の意味について、当時の歴史、信仰背景に照らし合わせながら解き明かすことを目的としている。新様の像は、宋代の観音信仰に起きた大きな変化と同時期に制作されたと目される、注目すべき作例群である。しかし、これらに先立つ唐代の像に関して、特に現存作例の約半数が集中する四川地域の作例の基礎研究が不足していたため、先行研究では「新様」像の特異な図像が宋代特有のものであることが、明確に認識されてこなかった。筆者はこれまでに四川地域の現存作例を網羅的に調査し、唐代の現存作例の様式や図像の変遷を把握して編年を行い、その背後にある社会的背景についても研究を進めた。その過程で、新様の像が、宋代に入ってから登場することを確信し、本課題の着想を得た。よって、本課題は、唐代の千手観音像と信仰についての最新の研究成果を踏まえた、画期的なプロジェクトであると言える。新様の像が宋代になって登場した背景には、晩唐頃から流行し始めた、千手観音を本尊とする法会の存在があると考えられる。唐の末期になると、図像的にはそれまでの定型を引き継ぎながらも、高さが7、8メートルにも及ぶ巨大な千手観音像が造られるようになるが、こうした巨像が、千手観音を本尊とする法会の対象となっていた可能性を、濱田瑞美氏が指摘している。さらに、宋代に入ると「水陸会」や「大悲懺法」といった大勢の信者が集う仏教儀式が流行するが、これらの法会で千手観音が本尊となっていたこと、又同時期に各地の寺院で巨大な千手観音像が新造されて、主要堂宇の本尊とされたことを、筆者は文献から確認している。本研究の対象となる新様の像の中でも、特に四川地域の庵堂寺と宝頂山の石刻像は、やはりいずれも総高が8メートル前後と巨大である上に、その前方に屋根を懸けて堂を形成している。よって、一連の新様の像もやはり、様々な大型法会の対象となった可能性が考えられる。本研究は、上記した11作例の持物を把握し、これらが複数の法会と結びついて発生した可能性を検討することを主眼とするが、そのために作例を相互に比較し、分類する過程で、図像の流布した経路や背景についても見解を得られるのではないかと考えている。この点は、千手観音のみならず、宋代の観音信仰そのものを考える上で重要である。宋代の観音信仰については、観音の霊場補陀落山の成立という歴史的な出来事に加えて、皇帝や官僚(士大夫)が積極的に関わっていたことが、歴史学分野の先行研究で度々指摘されている。本研究との関連で特に興味深いのは、当時、幾つかの―96―

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