鹿島美術研究 年報第35号
116/142

影響関係を探る好材料となりうる。本研究が対象とする「浪華名所図屏風」は、例えば画面の左右に大きく住吉大社と四天王寺を配する右隻の構図は一連の「四天王寺・住吉大社図屏風」からの影響を想定できる他、大坂城下と市街地を描いた左隻については、北からの視点による構図が近年新発見されたオーストリアのエッゲンベルク城博物館蔵「豊臣期大坂図屏風」と近似していることが指摘できる。以上最近の研究成果によって、先行作例との比較分析や影響関係の有無の検討により、「浪華名所図屏風」の特徴をとらえ、制作の問題を考えることが可能となる。先学では大坂をモチーフとした諸作例を、大きく都市風俗図から名所景物図へ、という流れの中でとらえている(脇坂淳「大坂を描く諸屏風の脈絡」『大阪市立美術館紀要』6、1986年)。しかし「浪華名所図屏風」の場合、特に大坂城下を現実感を込めて細密に描いた左隻は単に名所景物図の枠内ではとらえ切れるものではなく、景観年代を元禄期とする本屏風のような作品の存在は、都市風俗図から名所景物図へ、という従来の体系的な理解それ自体の再検討を促している。「豊臣期大坂図屏風」のような新出作品も合わせて、近世の大坂を描いた作例の系譜を改めて整理し直すことは喫緊の課題であり、本研究はそうした系譜整理に寄与しうるものである。さらに大坂は、豊臣政権の支配体制が崩れた後、元禄期に至るまでに江戸幕府の天領となり、商業と経済の中心、水運の要となる水都として都市の性質や様相は大きく変貌を遂げた。豊臣期の大坂を描いた作例と、「浪華名所図屏風」を含めたそれ以降の作例との間には何らかの相関関係や影響関係が認められるのか、それとも両者には断絶があり、全く別の性格を有した画題ととらえるべきなのか、この点を検討することは、近世大坂の都市観の分析にも通じ、都市史や地方史の観点からも重要な着眼点であり少なからぬ寄与をなすと考える。近年は地方史の分野を中心に、地誌類の分析から近世の地域意識の形成についての研究が盛んである(「特集近世日本の地域意識を問う」(『歴史評論』790、2016年)など)。地方の都市を描いた作例の詳細な分析は、都市にどのようなまなざしが向けられ、その主体は誰なのかを問う、近世の地域意識を絵画史料から探る手掛かりにもなろう。先述のとおり、近世の名所図屏風研究の現状は、ごく一部の作品について個別の議論が行われているにすぎない。あるひとつの作品に対して、時代を前後する作品や他都市の作例と関連付けた「立体的な」研究は不足しており、全国各地に残る作例は、―101―

元のページ  ../index.html#116

このブックを見る