鹿島美術研究 年報第35号
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近代大阪の洋画研究―明治から大正期を中心に―その地の往時を今に伝える歴史資料としての位置付けしか与えられていないケースが多い。洛中洛外図が大量生産され富裕層の間で享受されるという受容の裾野の広がりを見せる一方で、16世紀末期から17世紀を通じ、独自色の強い洛中洛外図の地方版ともいうべき作品が各地で制作されている。このような事象が起こり得た社会的・文化的背景を明らかにするためには、現状では著しく不足している個別の作品研究の深化が不可欠である。本研究は、近世の名所図屏風を体系的にとらえ直し、その系譜そのものを明らかにするための一助となる。研究者:大阪新美術館建設準備室学芸員大阪の油絵は、明治22年に山内愚僊が東京から、翌23年に松原三五郎が岡山から来阪したのを草創とし、大正終わりから昭和はじめにかけて、小出楢重らの信濃橋洋画研究所、青木宏峰の新燈社、赤松洋画研究所、大阪美術学校など、さまざまな洋画団体・研究所の誕生を迎え、大きく発展したとされる。ただ、この間、洋画家がこぞって参加する美術団体が存在したわけでも、影響力のある教育機関が存在したわけでもなく、東京や京都に比較すると“大阪の洋画”が一つの流れとして提示される機会は少ない。特に、大阪の洋画を語るうえでこれまで欠けていた視点は、愚僊、三五郎以降の大阪の洋画を支え、大正末以降に大阪出身の洋画家を生み出す土壌を作った、いわば第二世代にあたる画家たちについてである。彼らの画業はほとんど顧みられることなく、忘れ去られているといってもよいであろう。本研究では、この忘れられた第二世代に注目し、これまで十分な検証がなされてこなかった明治後半から大正期にかけての大阪の洋画界について調査を行う。特に、次の2点について研究課題とする。1)明治から大正期に大阪で活躍した洋画家たちについて、名前、作品、作風の特徴、出品歴や活動の状況などの基本情報を収集する。2)この世代において、特に赤松麟作、広瀬勝平、宇和川通喩に注目し、明治39年に大阪で発刊された漫画雑誌『大阪パック』とのかかわりを検証する。赤松、広瀬はともに東京美術学校の1期生で黒田清輝に学び、本格的な西洋由来の油絵を大阪にもた―102―高柳有紀子

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