近現代の仏像における造形性と宗教性意匠、すなわち障壁画であれば画題、飾金具や天井画であれば文様が持つ意味について、その配置された場と関連付けて個別に論じることである。筆者はこれまでに、遠侍障壁画および黒書院四の間障壁画について個別に研究発表を行った。遠侍の虎之間三室に描かれた《竹林群虎図》ついては、障壁画修理中の発見を元に図像の分析を行い、明代の「乳虎図」の図像が取り入れられていることを明らかにし、それが父権的な支配体制と愛情深いが近寄り難い母性を示すことから、幕藩体制そのものを象徴するものであると論じた。また黒書院四の間について、画題の歴史的背景を明らかにするとともに、行幸そのものが、当該障壁画や行幸御殿のいくつかの部屋の画題選択に影響を与えた可能性を論じた。今後も、このような個別の棟や部屋ごとの研究によって、各障壁画が、寛永当初どのような意味を読み取られ得たのかについても、引き続き研究を進めたい。研究者:総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程本研究の目的は、美術史では研究対象とされることが少なかった近代以降に制作された仏像の「造形性と宗教性」を明らかにすることである。筆者は仏像の中でも「観音像」を中心に研究を進めている。近代以降の観音像は、地蔵像や阿弥陀如来像など他の仏像以上に〈美術〉の影響をうけている。「日本美術」が形成される過渡期に、〈最初の日本画〉と評される狩野芳崖の《悲母観音》と、〈日本的主題の洋画〉として原田直次郎の《騎龍観音》が制作された。相対的な概念として誕生した日本画と洋画の双方で「観音」が選ばれた。立体像としては、森川杜園や山田鬼斎などによる古仏の模刻として観音像が制作される一方、陶磁器、金工、牙彫などさまざまな工芸作品のモチーフとして観音像が選ばれている。さらに第五回内国勧業博覧会には、高村光雲監修の《楊柳観音噴水》のような西洋的女神像を反映したモニュメントとして観音像が制作されており、古仏からの学習と西洋美術的身体表現が結びついた新しい造形が誕生したと言えるだろう。大正期以降、仏教風彫刻が流行すると、観音像と類似する形状の彫刻作品が増えた(藤井明「大正・昭和戦前期の仏像風彫刻について」『近代画説』24,2015年)。大正―106―君島彩子
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