鹿島美術研究 年報第35号
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期以降、観音像のイメージは、次第に凡アジア的な女神像へ変容する。《悲母観音》の時期には「日本的な女神」であった観音像は次第に「アジア的な女神」へと変容したのである。昭和前期、アジアの象徴としての観音像は、帝国主義や植民地支配と結びつき「興亜観音」というモニュメントを生み出した。松井石根陸軍大将が転戦した南京周辺地等の戦場の土を材料に、日中両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため《興亜観音》を発願した。常滑の陶工、柴山清風によって制作され熱海に建立された《興亜観音》をはじめ、各地に《興亜観音》が建立された。さらに南京市と名古屋市で日中友好のシンボルとして観音像が交換されるなど、戦時下の観音像は文化工作の一翼を担う重要なモニュメントでもあった。戦後多くの軍神像や忠魂碑が壊されるなか、像容に特定のイデオロギーを含まない観音像は、平和のシンボルとして捉えられるようになった。また美術と強く結びついた近代的観音像の特異性は、モニュメント彫刻として寺院や墓地など宗教空間以外の公共空間にも設置されたことである。例えば広島市の平和記念公園内に建立された《平和乃観音》は「芸術作品」として宗教的施設が禁止された公園内に建立が許可されている。観音の表象が、平和のシンボルとして仏教教義を超えて受容されたのである。戦後、制作された観音像の多くは、戦争によって亡くなった人々の慰霊・供養を目的に建立されている。このような状況から信仰対象から鑑賞対象へという単純な変容と捉えることは出来ない。今後は、長い歴史をもつ多様な観音信仰が、新たに成立した「美術」という概念と結びつき、どのような造形性と宗教性が生み出されたのか複合的に検討していく。近代以降に成立した美術や文化財といった概念は、大和古寺の仏像の模倣やヌードを基本とする身体描写など、新しく生み出された観音像の造形にも影響を与えている。仏師以外にも彫刻家や陶工、石工など様々な立場の制作者が観音像を制作している。その中には伝統的な造形を大きく逸脱したものも多い。観音像を造形的特徴だけでなく複合的に捉えることは、観音像が社会の中でどのように存在、存続しているのかという理解にもつながる。近代以降の対外戦争における観音像による文化戦略、パブリック・アートと隣接する形で公共空間に多数建立された戦争死者慰霊の観音像、そして東日本大震災の被災地における祈りの観音像まで、近現代における死者に対する祈りの対象としての観音像の「造形性と宗教性」の相互関係を明らかにすることが本研究の目標となる。―107―

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