鹿島美術研究 年報第35号
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田村宗立関連資料の調査と作品研究研究者:京都国立近代美術館研究員宗立は1846年(弘化3年)、つまり幕末生まれであり、そのため油彩画法の会得に大変な労力を費やすことになる。いまだ画材も十分でない時代だったので、当然ながら油彩画を専門的に指導する機関も人材もいない中で、英語を学び、独学で油彩画法を研究していた事実からは、好奇心旺盛で熱意のある人物であったことが容易に想像できる。しかし、以上のような状況であったため、京都府画学校で教えていた時期を含めて、宗立が洋画界で活躍した時期は、京都における油彩画の胎動期であり、京都洋画壇が最も隆盛するのは、やはり浅井忠の登場を待つことになるだろう。浅井忠は1902年に京都高等工芸学校の教授として赴任しており、のちには聖護院洋画研究所や関西美術院の設立に寄与した人物である。関西美術院が安井曾太郎や梅原龍三郎など、日本の近代美術において重要な作家を輩出していることはよく知られている。その浅井は、宗立に尊敬の念を持って接していたことを伺わせるエピソードが残されており、例を挙げると、宗立の母親が亡くなった時に、関西美術院の研究生は勉強時間の惜しさから総代のみの出席にしようと考えていたが、それを知った浅井は激怒したというのである。また、第3回の関西美術会では、宗立が顕彰されているが、それは浅井の発案であったことからも、浅井がいかに宗立を慕い、大切にしていたかを知ることができる。日本の洋画界に大きな影響を与えた浅井忠をして、京都洋画壇の基礎を築いた宗立への敬慕の念は並々ならぬものがあり、宗立の存在の重要性を改めて認識することになる。日本では江戸時代後期から徐々に西洋絵画に対する関心が高まっており、小田野直武の秋田蘭画や司馬江漢の洋風画など、遠近法や陰影を用いた絵画が描かれている。そのような潮流の中で、宗立も「真物に見へる絵」への興味が高まり、京都において独学で油彩画法を会得することになるが、この江戸時代から明治時代への移行期において、その時代に身を置き、美術界の潮流に沿うように画風を展開させた宗立は非常に興味深い存在である。宗立の油彩画法習得へと到るプロセスや時代状況を調査することで、日本における絵画表現の変革の流れをも解明することに繫がる。さらに、宗立の弟子には、原撫松や伊藤快彦らが名を連ね、その後の美術界で活躍した人物もいる。また、当時、図画の学校教育として鉛筆画が採用されたこともあり、―108―平井啓修

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