『源氏物語』は、夫・藤原宣孝との死別後、彰子のもとに出仕するまでの間の紫式部の著作と解されるようになった。『紫式部日記』を史料として取り上げる学問の方法が確立し、式部が独居時代に和漢の書物を渉猟したと日記にあることが、物語執筆の契機として注目されたのである。菊池容斎(1788~1878)による評伝『前賢故実』(1836~1868刊)には、文箱や巻子の積まれた厨子を前に、書物を広げる式部の姿が描かれている。これは『紫式部日記』の記述に基づき式部の独居時代を表したもので、江戸時代の国学の流れをうけ、実証的たることを志向した人物図であった。『前賢故実』には、絵と併せて、『紫式部日記』の内容を簡潔にまとめた式部の略伝が掲載されている。この略伝は、以後の式部評伝の原型となり、同様の文章が修身の教科書に繰り返し収載された。教科書の挿図としては、式部が彰子に『白氏文集』のうち楽府二巻を進講する姿が多く取り上げられた。蜂須賀家本「紫式部日記絵巻」の侍読の場面が、先行作例として参照されている。『紫式部日記』に依拠する点は同じであるが、読書に耽溺する姿よりも、すぐれた教育者としての式部の姿が、教科書には好んで取り上げられた。一方、日本画では、起筆伝説をふまえ、月を眺める式部の姿が描かれることがあった。近世以前からの紫式部図の型を継承するが、その内容は、石山寺への旅と観月という個人的な体験から独創性を発揮する、近代の、特にロマン派における文学者像をふまえ読み替えられたものであった。明治後期には、『源氏物語』には、日本を代表する文学作品としての価値が求められ始めた。国風文化の担い手たることが強調されたとき、漢籍の学殖という式部の特質の一つは省かれた。起筆伝説に登場する月や湖水も、実証性からみて画面から排された。教育の場では、文学者としての式部像は、文机と筆という、最小限の記号で表現されざるを得なくなったのである。西暦2000年に発行された二千円札には、五島本「紫式部日記絵巻」より、格子から顔をのぞかせる式部の姿が引用された。この選択にも、『紫式部日記』に典拠を求める、近世以降の実証主義が継承されている。物語執筆時の詳細についての記述が日記にはないため、『源氏物語』の作者としての紫式部の姿の表現には、課題が伴い続けている。紫式部像のあり方は、過去の問題ではなく、世界の中での日本文学・文化の位置づけが問われる現代に直結する問題である。―23―
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