4. 愛知・瀧山寺伝来の鎌倉時代初期慶派作例に関する調査研究和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課副主査三本 周作ところが、三尊像については、『縁起』などの文献をもとに、造像背景にある願主や作者といった人的ネットワークの実態解明が進む一方で、その特殊な造形(後述)が彼らのいかなる意図を投影したものであるかという点には明解な回答が示されていない。『縁起』によると、三尊像は、瀧山寺僧で源頼朝の従兄でもある寛伝が、頼朝の菩提を弔うべく発願し、その三回忌に当たる正治3年(1201)、像内に頼朝の髪と歯を納入の上、完成を見た。この内容に関しては、像本体の調査でも一定の裏付けが得られており、三尊像に関する基本事項として押さえられる。一方、①聖観音に梵天・帝釈天が随侍する稀有な構成になること、②梵天・帝釈天の姿が空海の構想による京都・東寺講堂諸像中の同像を立ち姿にアレンジしたものであることが従来から指摘されており、また、③聖観音に鎌倉時代の作例としては異例の飛鳥時代の光背形式が採用されていることも注目される。これら特殊な造形に込められた造像主体の意図が明らかになれば、三尊像造立の意義は一層精彩を帯びることになろう。この点に関し、本研究では「鎌倉幕府と王権」という観点から考察を試みる。まず①は、平安期以降、毎月18日に宮中で行われた観音供の本尊と同形式になることが指摘され、同本尊が天皇権威の象徴とされた事実との関連が考慮される。②については、三尊像が両界曼荼羅と真言八祖像を掛けた、密教における「灌頂」の場と同様の荘厳のもとに安置されたこと(『縁起』)との相関性がうかがえるが、「灌頂」が平安後期以降、天皇即位の儀礼にも取り入れられ、王権とつながる要素を有していたことは注愛知県岡崎市に所在する瀧山寺には、鎌倉時代に顕著な活躍を見せた慶派仏師の手になる仏像が2件伝存する。そのうちの1つが、『瀧山寺縁起』(鎌倉末期成立。以下、『縁起』)に運慶・湛慶父子の作として記載される聖観音・梵天・帝釈天三尊像(以下、三尊像)であり、鎌倉初期における仏像の新様式の確立に大きな役割を果たした運慶関連の遺例として、彫刻史研究上にきわめて重要な位置を占める。―24―
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