鹿島美術研究 年報第35号
45/142

驚くべきことに、問題とされる時代・地域において制作された工芸品の銘文の多くは、未だに解読すらされていない。かかる状況は、金属器に関して言えば、ティムール朝期の作例を対象としたリンダ・コマロフのモノグラフ(1992年)や、ヴィクトリア&アルバート美術館(ロンドン)やエルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)の有するコレクション(それぞれ1982年、2014年)の銘文の出版によりある程度改善されている。本研究では、カタールのドーハ・イスラーム美術館の所蔵する当該時代の金属器52点(2017年現在大部分が未出版)を調査対象とし、これまで試みられていない15世紀後半から18世紀初めに至るまでのイラン製の金属器のカタログ・レゾネの作成に資する。ドーハのコレクションは、比較的近年になってからアート・マーケットを介して大規模に収集された作例であることから、銘文を解読した上で、来歴が確実な初期収集作品群との入念な比較を行う必要がある。また、陶製品に関しては、筆者自身が、Muqarnas誌に発表した論文(2017年11月出版)の中で、ラスター彩陶製墓(1560年製)の銘文を取り上げ、ペルシア語詩の解読・同定が作品の産地同定に資する重要な情報源であることを実証したことにより、今後、同様のアプローチによる研究が増加していくであろうことが予想される。他方、テキスタイルに銘文として施されたペルシア語詩に関しては、未だにその重要性が認知される段階に至っておらず、研究の推進が急務である。大型絨毯の研究はこれまで、主としてその素材・技法・デザインに関心を寄せる染織研究者の手によって推進されてきたという経緯があり、銘文の内容の解読に関心が殆ど寄せられてこなかったのである。金属器や陶製品に施された銘文に比して、テキスタイル、特に、大型絨毯の周囲に緻密に施された銘文は、図版のみを参照して解読するのが極めて困難であり、後世の補修によって補われた部分との識別を確実に行うためにも、実見調査が欠かせない。本研究の調査対象とする、イタリアおよびフランスの美術館に所蔵されている16-17世紀イラン製の大型絨毯の一部には、寄進文書や外交文書の記述から、用途・来歴がある程度わかる稀有な作例が含まれ、銘文中のペルシア語詩の解読が進めば、大型絨毯の産地同定や制作背景、想定されたオーディエンスの特定に直結することが予想される。さらに、工人や工人の営為に係わる記述を有する同時代一次史料(ペルシア語およびアラビア語)については、経済史学を専門とするマフディ・ケイヴァーニーのモノグラフ(1982年)において一定数提示されたものの、後続の研究は、未だ新出史料を―30―

元のページ  ../index.html#45

このブックを見る