⑥18世紀前期狩野派研究の金弘道(1745~1806以降)とは多少遠い画風であるとされるが、画面の細部の表現を見てみると、同時期の宮中画員・李寅文(1745~1821)らの樹枝法と通じるところがある。一時期、韓国人研究者たちにより、日本絵画であると誤認されたこともあるが、この作品は18世紀後半~19世紀前半の画員画家による作品、もしくはその模写であることを想定することができる。朝鮮王朝後期の画壇において、日本画風を取り入れて描かれた作例として、再検討する価値があると思われる。したがって、筆者は、伝金弘道筆「金鶏図屏風」(韓国・三星美術館Leeum蔵)を本研究の対象とし、二つの点に着目して分析する。一つは、狩野元信の四季花鳥図屏風様式の受容の側面に注目することである。伝金弘道筆「金鶏図屏風」は、狩野元信筆「四季花鳥図屏風」(1549年、白鶴美術館蔵)の左隻を左右反転したかのような構成を取っている。おそらく、元信様式を受け継いだ作品がその原作であると推定される。この作品とその関連作品を分析し、朝鮮王朝後期における元信様式の変容の様子を窺う。また、現在、この作品の原作がどのような時点・背景で贈られた屏風であるかは、明確な指摘が行われていない。元信様式の面影を確実に残しているこの作品の画面構成を分析することによって、原作の朝鮮伝来時期についても再検討してみたい。二つ目は、李裕元の記録の内容を尊重し、「華城行宮」という場所の特性に注目することである。華城は、正祖時代の1796年に建設された計画新都市であった。筆者は、華城の行宮に日本の金屏風を模写した作品が置かれたことは、正祖がその地で、造形の面においてもより新たな要素を取り入れようとしたのではないかと推測している。それは、正祖の父・思悼世子(1735~1762)の菩提を弔うため1790年に建てられた華城・龍珠寺の大雄宝殿に西洋画風を導入して描かれた仏画である伝金弘道筆「三世如来躰幀」が置かれたことともつながるのではないかと思われる。伝金弘道筆「金鶏図屏風」と類似の作品を理解する新たな試みとして、記録の中で作品が置かれていたと伝わる場所についても注目してみたい。研究者:徳川美術館学芸員本研究の目的は、江戸狩野派研究の空白期となっている18世紀前期狩野派の画業と薄田大輔―36―
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