鹿島美術研究 年報第35号
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スキーは当時、ドイツ的な作品であると断じられていると同時に、その装飾性が評価を受けていることがわかる。一方で、カンディンスキーは、この「彩色ドローイング」の源泉ともいえる仕事をしていた。それが、版画による挿絵の仕事である。カンディンスキーの初期の木版画の仕事については、モスクワで刊行されたポートフォリオ『言葉なき詩(Stichi bez slov)』(1903年刊行)、そして後にパリで刊行されたポートフォリオ『木版画集』(1909年刊行、宮城県美術館蔵)がある。「彩色ドローイング」の作品に加えて、これらの資料は、ユーゲントシュティールやナビ派、象徴主義の絵画の影響が指摘されているが、これまで実証的な検討は十分ではなかったように思われる。特に、後述するように、象徴主義との接近の問題については、あまり焦点をあてられることがなかった。『木版画集』は、『新傾向』誌の発行元が刊行したもので、1907年から制作された木版画が、写真複製の一種であるエリオグラビュールで複製されている。『新傾向』誌には、カンディンスキーによる33点の木版画が掲載されており、この雑誌は、パリの象徴主義の拠点でもあったとファインバーグ氏は指摘している(Jonathan David Fineberg, Kandinsky in Paris 1906-1907, Research Press, 1975, rept. 1984.)。本研究は、上述した先行研究を踏襲し、パリ滞在期のカンディンスキーとフランスのサロン、そして象徴主義との接点を、『新傾向』誌などの原資料をもとに実証的に再検討することに意義があると思われる。構想本研究では、カンディンスキーがパリ滞在時に制作した作品を分析し、さらに、カンディンスキーが接点を持ったとされる『新傾向』誌の編集者であるアレクシス・メロダック=ジャノー(Alexis Mérodack-Jeaneau, 1873-1919)と、カンディンスキーも所属した「国際文学美術協会(L’Union internationale des beaux-arts et lettres)」の活動を再検討する。これによって、カンディンスキーが実際に接点をもった、フランスのサロン、そして象徴主義の動向を明らかにできると思われる。―41―

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