⑲中世絵画における猿曳きの図様に関する研究ィが重なってみえる。「南北朝鮮の融化に架け橋のような役割をしたい」という遺志を残すくらい、韓国について感心を持ち続けた人物であるが、これまで加藤松林についての研究はなされていない。そして、松田正雄(黎光、1899-1941)は、出身や学歴、渡朝時期については不明な部分が多いが、1926年朝鮮美展に初入選して以来、1940年まで朝鮮美展を中心に審査委員や参与作家として活躍した。朝鮮芸術社で東洋画を教えながら、画友茶話会にも属していた。正式な美術教育の記録が残ってない松田正雄の場合、1929年京都で4ヶ月間の絵画研究がその後の画風や人脈に大きな影響を与えたと推測できる。松田正雄における調査でもう一つ注目すべき資料として<朝鮮風俗木版画>を挙げられる。1940年から1941年にかけて松田黎光朝鮮風俗木版畫刊行会により刊行された総12図の木版画で、朝鮮風俗画を絵葉書ではなく横大判絵で刊行したのはこれが唯一本と確認される。印刷したのは、当時官展の図録や絵葉書刊行で有名だった京都の「芸艸堂出版部」である。ここでも松田正雄と京都との関わりが確認できる。戦時には国民総力朝鮮美術家協会理事として活動したことから総督府との関連性も覗える。加藤松林と松田正雄は京都画風を駆使したと言われているが、彼らが描いた技法は日本画のそれであっても描いたモチーフはほとんどが朝鮮の自然と人物だった。朝鮮に移住した在朝日本人、または日本に移住した在日朝鮮人に対する視線を再考することは、植民地と帝国の境界地域に位置した文化人らの多様な面々とかれらの作品が持つ中層的な性格を全面に現し、一国中心の美術史の限界を越えようとする試みとなる。研究者:山口県立美術館普及課長我が国の中世後期から近世初期(15~17世紀)にかけての漢画師の絵には、「猿曳き(猿回し)」の図様を含む作品がしばしば見られる。その制作年代が室町時代に遡るものとして、伝雪舟筆「琴棋書画図屛風」(六曲一双・永青文庫蔵)が現存し、それに次いで古い作品として伝狩野元信筆「猿曳き図屛風」(六曲一隻・根津美術館蔵)がある。また江戸時代初期の作例には、狩野探幽(1602-74)による「野外奏楽・猿曳き図―54―荏開津通彦
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