日本の前衛美術における写真・映像の「影響」に関する研究―1930年代後半~40年代初を中心に―中華民国の美術理念「宗教に替えて美育を」を、「文人画」受容の背景として検討する。②「文人画」概念の受容の経緯③近代中国の文人画の様式呉昌碩及び斉白石を「文人画」概念による制作の代表的画家として検討し、また彼らの作品を1930年代に蒐集した須磨コレクション、1950年代に蒐集した曹仲英コレクションを、「文人画」概念による日本・台湾の最初期のコレクションとして検討する。研究者:国立新美術館特定研究員(美術資料室長)谷口英理関東大震災以後の日本では、メディア環境の大規模な変動があった。大衆娯楽誌『キング』の創刊とラジオ放送の開始(1925年)、新聞発行部数の飛躍的増大(1925年前後)、円本ブーム(1926年~30年頃)、電信の実用化(1928年)、ニュース映画の定期上映開始(1930年)といった事象が次々と生起し、昭和初年の1930年前後には現代のマス・メディア社会の原型ともいうべき社会が成立した。本研究の目的は、こうした新たなメディア状況に、日本の前衛芸術運動の実践がどのように対応し、創造概念の更新を企てようとしたのかという問題について、具体的な事例の提示によってその一端を解明することにある。メディア環境の変動と前衛芸術運動のあり方との密接な連関に自覚的だった存在に、美術批評家の瀧口修造がいる。1939年、瀧口は日本の前衛絵画における「影響」の問題を論じた「影響について」(『美術』11月号)というエッセイを発表している。前衛絵画の「影響」源として瀧口が真っ先にあげたのは「写真の影響」だった。瀧口がここで言う「写真」とは、単に写真というメディアだけを指すのではなく、写真や映画等の機械に基づく新しい視覚メディアが生み出した視覚イメージ全般を指す概念である。つまり瀧口が注目した「写真の影響」とは、メディア環境の変容が人間の知覚や感性、芸術の創造のあり方にもたらした「影響」という、きわめて大きな射程の①1920年代における中国での美術史学の成立1920年代の『中国絵画史』と題した著述を分析する。―57―
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