鹿島美術研究 年報第35号
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守道をはじめとする江戸時代後期の狩野派絵師らが風俗画や浮世絵にならった美人画を手掛けていたことも肯首されよう。ところで、山東京山(岩瀬百樹)が著した『歴世女装考』(弘化四年〔1847〕刊)には、「彦根屏風」第五扇の「唐輪髷の女」が図入りで紹介されている。本図には「此圖ハ岩佐又兵衛が筆なりとて或人のもてる模本なるをここにハ全圖を畧し(以下略)」という一文が添えられていることから、幕末の江戸の地において市中に「彦根屏風」の模本が流通していたと推測でき、こうした図様の伝播は狩野家で描き継がれた模本類が重要な役割を果たしていたものと考えられる。楽央斎休真洞信が手掛けた模本「彦根屏風」(河鍋暁斎記念美術館蔵)には、模本の制作年代や原本からの模写を行った場所が明確に記されており、本研究を遂行する上で中核をなす作品だと位置づけられる。楽央斎の模本を手掛かりとして研究を進めることは、「彦根屏風」の受容史をまとめ直すことにも繋がるだろう。研究の価値と構想狩野秀頼筆「観楓図屏風」(東京国立博物館蔵)や狩野長信筆「花下遊楽図屏風」(東京国立博物館蔵)など、近世初期の狩野派の絵師たちが風俗画を手掛けていたことは周知のとおりである。本研究では、江戸後期において江戸狩野家が「彦根屏風」に類する風俗画を再び描いた背景をも照らし出したい。江戸時代にとどまらず明治以降の狩野派にとっても「彦根屏風」は重要な創作の源であった。例えば、幕末明治期に活躍した河鍋暁斎は、楽央斎の模本から「彦根屏風」の図様を学び取り、「大和美人図屏風」(個人蔵)を手掛けた。また、明治二年に明治天皇からオーストリア皇帝に贈られたウィーン美術史美術館が所蔵する画帖には、中橋狩野家十五代目・狩野永悳(1815~91)が描いた大和絵や風俗画を主題とする15図のうちに、「彦根屏風」の写しが含まれている点は大変興味深い。江戸幕府の御用絵師であった狩野家の人々が、新政府のもと明治以降も画業を続けていく上で、「彦根屏風」は重要な画題の一つであったということなのだろう。本研究課題を遂行することで、江戸から明治にかけて「彦根屏風」が描き継がれてきた過程や、模本を介した江戸狩野派の絵画制作システムの一端を明らかにしたい。―64―

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