に禅林寺の静遍に結びつける中野氏説に疑義を呈する論考などが提出され、新たな視点での再考が求められてきているといえる。そこで筆者は、上代仏教の主潮をなしてきた滅罪思想の系譜のもとに本図をとらえる試みを行ってきた。本図に描かれる持幡童子や四天王の図像解釈を以てすれば、上代仏教の残影を留める作品として、平安以降の浄土信仰においても古代の滅罪信仰が実質的機能を伴ってその命脈を保ってきた証左として本図を捉えることができると考えている。しかしながら、こうした図像解釈に主眼を置いた研究は、滅罪と主題「山越阿弥陀」との関連や、同じく滅罪を重視する阿字観や覚鑁流真言密教との符合までを十分に解明したものではなく、検討すべき課題を多く残している。そこで筆者はこの滅罪思想という観点から、制作環境や需要者など制作主体も含め本図をより包括的に考証し、本図に関する研究を進展させることを目標とする。また、こうした問題とは別に検討すべき課題もある。本図と同様に、1体ないし2体の持幡童子を描く来迎図や仏教絵画(普賢影向図、弥勒来迎図など)が複数存在する。来迎図の持幡童子については、大串氏の「来迎芸術論」以降、迎講との関連において論究されてきており、近年では、『法華経』に説示される天童(法華経持者に給使する役割)と属性が一致することに基づく論考の提出が続いている。しかしながら、筆者は持幡童子が本図や前述の仏教絵画に採用される理由を考察する上で、さらにその淵源を遡求する必要を感じ、滅罪思想における童子(倶生神と習合する善悪童子)をその根源的イメージとして想定した研究を行ってきた。ただしそれが、迎講や伝法灌頂等の仏教儀礼や絵画で天童として採用される過程までを解明する段階には至っていない。この点については、垂迹思想や中国の民間信仰・伝承の影響も鑑みた多方面からの検証が必要であると考える。筆者は、持幡童子の根源的イメージは中国の仏教思想や民間信仰と融合・伝播して様々な変容を遂げて請来され、来迎図をはじめ様々な仏教美術に影を落としていくという流れを想定している。この解明を長期的な研究の視野に入れ、本研究をその第一歩としたい。前述の滅罪という観点からの研究は、本図にとどまらず、浄土教美術全般に上代仏教思想の伏流や変容を探る意義を改めて示すことができるだろう。また、本図は山越阿弥陀図の原型成立から一層の展開と複雑化を表わす作例ではあるが、現存最古の遺品であるところからも、本図を取り上げる研究は一連の山越阿弥陀図の成立事情や変遷を探る上でも重要となる。また、天童に関する研究の成果は広汎な仏教美術に影響―67―
元のページ ../index.html#82