鹿島美術研究 年報第35号
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ジャン=フランソワ・ミレーの宗教画―《無原罪の聖母》を中心に―研究者:山梨県立美術館学芸員太田智子本研究の目的は、19世紀フランスの画家ミレーが描いた宗教画《無原罪の聖母》(1858年、山梨県立美術館蔵)の制作背景を明らかにすることである。その作品研究を軸に、表現の特徴を分析するとともに、ミレーに制作の依頼がなされた状況を考察し、19世紀におけるミレーの宗教画の位置付けをこころみる。主に農村で働く農民の姿を描いた写実主義の画家として知られているジャン=フランソワ・ミレーは、数は少ないものの宗教画も手がけていた。中でも、ローマ法王ピウス9世の鉄道車両を飾るために制作されたという《無原罪の聖母》は、その代表作といえよう。ピウス9世(在位:1846-1878)は法王の座に就いた当初、革新的でリベラルな姿勢を示し、ヴァチカンに鉄道を敷くことを許可していた。1858年にフランスの二つの会社により、特別に仕立てられた豪華な車両が献上された。親友テオドール・ルソーの仲介により、ミレーがこの車両内に飾るための作品を描いたとされている。折しもピウス9世は聖母マリアの「無原罪の御宿り」を1854年に教義と定めており、作品テーマはその事績に則ったものと考えられる。ミレーの伝記や20世紀初頭の研究書でその制作について記述されているが、ミレーに依頼された理由や経緯など、詳細は定かではない。一方、同じ車両にジャン=レオン・ジェロームの作品も設置された。この法王の車両が2016年からローマのカピトリーニ博物館のセントラル・モンテマルティーニで公開され、現在でも特別な展示室で展示されている。車両内にジェロームの作品は残されているが、ミレーの作品がかつてどこに設置されていたのかなど情報は明示されていない。また、伝記などの文献においては、法王が作品を好まなかったと伝えられているが、その理由はミレーの表現が特異であったためと推測されるに留まり、詳しく検証されてはいない。本研究では、ミレーの作品が制作された当時の資料を収集し、作品に向けられた同時代の言説、車両製作の記録を確認する。車両そのものの実見も行い、その構造を確認することで、作品が車両内でどのように使われていたかを検証する。車両の装飾には当時の帝国工芸院教授であったエミール・トレラがディレクターとして関わっていた。その指揮下でジェロームとミレーの二人が絵画を制作したことについて第二帝政期の政府によるプロジェクトであったとみる研究もある。上記の調査により、ジェロ―71―

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