家の交流については、ほとんど検討されてこなかった。その一方で、明治期の晴湖や小蘋に関しては、男性画家や漢学者、文人サークルのメンバー、あるいは後援者となった人物など、男性との関係が多く語られてきた。(注9)。明治期の女性画家の交流のようすを窺える一例として、福田瀾月が明治42年に開いた画会において、跡見玉枝、奥原晴翠、中山彩畝、松林雪貞らの女性画家が席上揮毫を行ったことが挙げられる。こうした画会や研究会における交流や、私的な交友など、明治期における女性画家の交流は、その後の大正期に現れた女性画家の団体結成へと発展して行くものと考えられ、史的な展開を考察するうえで見過ごすことの出来ない事柄である。③ジェンダー的視点先述のとおり、昭和末年以降、女性画家の研究にはジェンダー的な視点が盛り込まれ、それまでのいわゆる男性中心に構築されてきた美術史の中で、忘れられた存在となっていた画家の発掘や、女性画家をとりまいていた社会や画壇の状況を解明するなど、多くの成果が挙げられた。近年仲町氏らによって行われた研究においても、個々の作家研究を基礎とし、その上で社会的・文化的な制約の下に制作された女性画家の作品に、女性特有の表現や意識を読み取ることを目的としており、ここにもジェンダー的な視点の存在が認められる。その一方で、ジェンダーの視点に立つことにより、見えにくくなっている事柄もある。①でも述べたように、近代以降の女性画家研究は、日本画家よりも洋画家を中心に語られてきた。またあまり語られないのが、男性画家への影響である。たとえば池田蕉園は明治40年の東京勧業博覧会へ出品した「花の陰」において、人物の目をぼかして描いたというが、その後そうした表現は他の女性画家のみならず、男性画家にも影響を与えている。このように、ジェンダーの視点に立った女性画家研究は、本来的に性別の違いによる差異のより大きな事柄に関心が多く向けられる傾向にあり、そこにひとつの限界があるように思われる。いささか逆説的ではあるが、女性画家に関する研究は、男性画家に対し相対化された存在としての女性画家のみを対象とした範囲にとどまるべきではない。画壇、ひいては社会の中に女性画家と男性画家がそれぞれ独立して存在していたわけではなく、その関係性がたとえ一対一の同等なものでなかったとしても、それぞれが共存し、互いに作用しあいながらひとつの社会や画壇を構成していたのであ―77―
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