後の活動において明確な差異がある。それは、画家それぞれが留学以前に経験する社会状況の違いに起因するものであり、そうした経験の差が彼らの芸術にも影響を与えているのは言うまでもない。いわゆる「支配者」として、韓国画壇で「朝鮮美術展覧会の貴族」と呼ばれ、何不自由のない生活を送ったと言われる山田新一であるが、その一方で、彼が韓国画壇で経験した挫折や葛藤は注目されたことがない。加えて、その活動内容や作品に関する体系的な研究が行われたこともない。韓国においては植民者として、日本においては外地からの引揚者として、アイデンティティーを規定してきた戦後の評価により、山田の存在は日韓の美術史のどちらにも位置づけられない「境界人」として排除されてきた。そうした状況を踏まえ、彼に関する客観的な評価と正当な批判を行うためには、まず入念な調査や綿密な分析を行うべきではないだろうか。本研究は、徹底的な資料調査と分析に基づき、山田新一の画業及びその芸術を広く知らしめ、再評価することを目標としている。山田に関する発展的な研究の足場を設けると同時に、彼の芸術を日韓近代美術史上に位置付けようとする試みなのである。先述した通り、山田は、官立学校である東京美術学校の西洋画科の出身で、植民地韓国の画壇ではもっとも重要視される画家の一人であった。フランス留学の際も、著名な画家であるエドモン=フランソワ・アマン=ジャン(1858-1936年)に師事しながらエコール・ド・パリの画家たちや、『青い鳥』の作者モーリス・メーテルリンク(1862-1949年)など、国籍や分野を問わず多様な人物と親交を結び、サロン・ドートンヌやサロン・デ・チュイルリーにも定期的に出品をするなど、注目すべき成果を上げている。山田は一貫して、穏健で写実的な画風で女性像を描いているが、その表現も彼の移動先により少しずつ異なった様相を見せており、各地における彼の経験や絵画修業に関する考察が必要である。また、これまで山田の画業において特に注目されることはなかったが、彼が描き続けたもう一つの主要な画題である、体の不自由な人や戦争捕虜といった「弱者」に対するまなざしは、「支配者」という枠組みだけでは論じることができず、むしろ篤実なキリスト教信者であった山田の個人的な状況を踏まえて初めて正確に理解できるようになると考えられる。本研究は、山田新一の作品や資料のほとんどが所蔵されている都城市立美術館(宮崎県)を中心に徹底的な資料調査と分析を行い、その結果をデータベース化することを最大の目標としている。また、そのデータベースに基づいて、彼の移動先であった―80―
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