小早川秋聲に関する基礎的研究ると言うことができるだろう。それは後年朦朧体と呼ばれた技法を用いながら制作され、どこかこの世ならぬ印象を持つ菱田春草「乳糜供養」(明治36年)、横山大観「出山釈迦」(明治40年頃)などと比較すればその独自性が明確になる。釈迦の姿を日本画という枠組みの中で現実的な空間の中の存在として描くという目論みについて、その構想がどこから生まれ、それが何を意図してのことだったのかを明らかにする必要がある。日本近代美術の黎明期を代表する絵師である河鍋暁斎は、明治9年に苦行釈迦を描いた「釈迦如来図」、そして明治21年頃には修行する釈迦の姿である「降魔」を描いている。また、その後の仏伝図の発展を見ると、秦テルヲ「出山釈迦」(昭和2年以降)、村上華岳「釈迦樹下成道図」(昭和7年以降)など、個人的な信仰心から、釈迦の存命中の姿に自身の精神を託す目的によって仏伝図が多く遺される。それは大正期を経て、個人主義の風潮の高まりのために釈迦という個人に芸術家としての画家個人を仮託する気分が高まったためと想定される。近代における仏伝図の発展史を繙くために、「日本画」創出期における重要作であり、また仏伝図としても高い水準を誇る観山の仏伝図について、その構想源や意図を探ることが重要となる。研究者:茨城県天心記念五浦美術館学芸員日本画家・小早川秋聲(1885~1974)は、多くの戦争画を手掛けたことで知られている。主に帝展を舞台に活躍していた小早川の従軍画家としての活躍は、昭和6年(1931)の満州事変がその契機となった。各地のスケッチを行った小早川は、その成果を国内で開催した展覧会の場で発表し、作品集を刊行しただけでなく、関東軍司令部に壁画を制作するなど軍部への関わりを強めた。昭和13年(1938)には大日本陸軍従軍画家協会の理事となるなど、積極的に戦争に参与した画家のひとりであると言えよう。代表作に、日本刀を手にする軍人の姿を描いた屏風形式の作品「日本刀」(昭和15年(1940))や、戦没した軍人の頭部に日の丸の旗を被せ、国家に奉職した軍人を神聖化した「国之楯」(昭和19年(1944)、昭和43年(1968)に一部改作)、茶を嗜む軍人を描き、茶の湯を日本精神の象徴として示した「出陣の前」(昭和19年(1944))などがある。「国之楯」は陸軍省からの依頼により制作されたものであるが、日本兵―87―塩田釈雄
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