の遺体というショッキングな題材を真正面から扱ったこの作品の受け取りは最終的に拒否されている。また、戦時特別展に出品された「醜虜の面」は捕虜となった連合軍の姿を描いたもので、あからさまな描写は戦争の激化した昭和19年(1944)当時であっても批判に晒されている。これらの作例から分かるように、小早川の戦争画は「日本刀」や「出陣の前」のようにシンボライズされてはいるが、藤田嗣治「アッツ島玉砕」のように戦場そのものを描く洋画家の制作とは一線を画しつつも、かなり直接的なかたちで戦争を表現した作品が多い。終戦後は病を患ったこともあり、画壇の表舞台で活躍することはなかった。小早川の戦争画については既にいくつかの先行研究があり、上に挙げたような個別の作品については「戦争画」という大きな枠組みから考察がなされている。しかし、小早川秋聲という一人の日本画家が戦争画に取り組むようになった経緯については研究が十分とは言えない。戦争画以前の小早川に注目すると、明治38年(1905)、騎兵隊に入隊した小早川は「露営の図」を手掛けており、既に画家としてのジャーナリスティックな眼差しの萌芽が見られる。大正期にはヨーロッパに、昭和期には従軍画家として中国や東南アジアに渡るなど、海外への渡航経験が豊富であり、「ヴェニスの宵」(大正13年(1924))や「空車自語伊太利所見」(昭和3年(1928))を帝展に出品するなど、渡航経験を作品の実制作に結び付ける態度は、後の戦争画制作にも通じるだろう。上の小早川の画歴は、針生一郎氏が曽宮一念の語を引用して指摘したように、「私的感覚」に局限された日本近代の画家の制作が、戦争によって「公共的課題」が与えられたという日本の近代美術史の大きな流れに位置づけられるだろう。しかし小早川の調査によって、戦争と画家の関わりをミクロな視点から考察を深めることができると考える。本調査研究では、先行研究を踏まえて小早川の戦争画を改めて分析するとともに、小早川が戦争画制作に至る経緯を調査することで、「戦争と美術」というテーマのひとつのケーススタディを示すことを目的とする。戦争画制作への反応は画家によって様々ではあるが、小早川に着目することで、近代以降に成立した日本画が戦争において果たした機能について考察することも目的としている。―88―
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