鹿島美術研究 年報第36号
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出羽久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水の研究作例を一括して取り上げるものである。本調査研究は、初期作例におけるあらゆるモティーフや図像の借用・転用の有無を検証したうえで、借用・転用のなされたモティーフや図像が如何なるものか、それらの借用・転用がどのように行われたのかを検討することによって、造形化された初期の法界仏像の図像形成の実態を明らかにしようとすることに特色がある。また、本調査研究の考察によって、種々の経典の記述にそれぞれ相応する図像内容を一つの像身に集約させた法界仏像であるが、一から当該内容が像身に造形化されるというよりも、既存のモティーフや図像の借用・転用がおこなわれていたことが明らかになると予想される。したがって、法界仏像の場合、当該経典に相応する図像内容を持ちながらも、その経典に直接依拠したわけではない。このことは、法界仏像の研究のみならず、他の造形作品を考察するに当たって、方法論的には示唆に富む。研究者:馬の博物館学芸員柏﨑本研究では、出羽久保田藩(秋田藩)佐竹家御絵師であった狩野秀水求信(安永2年-天保8年〔1773-1837〕)の御子孫の家系に伝わった粉本等の資料と現存作例の調査・研究を通して、秀水の絵師としての動向を論じることを目的とする。そして、秀水の動向を通して、江戸時代後期の狩野派の組織内で藩絵師とはどのような立ち位置にあったのかを考察する。なお、本研究において取り扱う粉本類は新発見の資料であり、狩野派絵師や藩絵師の作画体制や動向などについて、これまでわかっていなかった新事実の判明が期待できる。筆者は、室町時代から明治時代初期までの狩野派研究を行ってきた。これまでの狩野派研究は、棟梁等の中心的役割を果たした絵師を取り上げることが多かった。そして、その一人の絵師の動向を通して狩野派の組織の変遷が論じられることはあったが、全体的視点で狩野派を捉える研究はこれまでなかった。そこで、筆者は狩野派絵師の中でも、棟梁等の中心的役割を果たした絵師ではなく、表絵師や諸国の藩絵師など狩野派の中で下位に位置する絵師に着目し、狩野派の組織がいかなる変遷をたどったのか考察することを目指している。本研究を筆者が行ってきた狩野派の活動や動向、画風の変遷を考える研究の一端としたい。具体的な論点としては現時点では以下―93―諒

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