鹿島美術研究 年報第36号
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エドゥアール・マネ受容からみる日本における写実主義理解の4点を考えている。1)藩絵師についての研究は近年、各地方において徐々に進んでいると言えるが、その活動が中央画壇との関わりから論じられることは少ない。江戸時代の狩野派は全国に藩絵師を派遣し、画壇の覇者となったと言われるが、本研究では狩野派絵師の諸国への波及がどのようなものだったのかを考察したい。2)藩絵師には国許で画事に当たったものと、江戸に定住し、江戸屋敷での画事を行ったものがいる。秀水は後者であるが、本研究を通して、両者にどのような違いがあったのか論じたい。3)狩野秀水は実際には菅原洞旭の子で、表絵師である浅草猿屋町代地分家の狩野洞琳の次男である秀水尊信の名跡を継いでいる。そして、名跡相続の2年後に久保田藩絵師となっている。しかし、なぜ秀水が表絵師の次男である秀水尊信の名跡を相続する必要があったのか、秀水が久保田藩絵師になった経緯等は現在のところ詳らかでない。秀水尊信が久保田藩絵師であり、名跡とともに職も相続したのか、あるいは秀水が久保田藩絵師になるために狩野姓が必要であり、何らかの手段を用いて秀水尊信の名跡を相続したのかの2通りが考えられる。秀水の名跡相続と久保田藩絵師任命の事情を考えることで、この時代の狩野派がどのような組織で、狩野姓がどのような意味を持っていたのかを考察したい。4)粉本とは従来画の手本として用いられ、粉本がなければ作画ができないと考えられてきた。しかし、粉本とは手本としての役割だけではなく、狩野派絵師としての権威を象徴する役割を果たしたとの説もある(尾本師子「江戸幕府御絵師の身分と格式」(武田庸二郎ほか『近世御用絵師の史的研究─幕藩制社会における絵師の身分と序列─』所収、思文閣出版、2008年))。実際の粉本を参照することで、粉本が狩野派絵師にとってどのような役割を果たしたのかを考察したい。研究者:練馬区立美術館主任学芸員明治・大正期のエドゥアール・マネ受容について知る最大の意義は、我国の洋画移入期における絵画観の成立を紐解く鍵となることにある。「生の芸術」論争と「絵画の約束」論争という日本近代の文芸史を語る上で無視できない2つの論争において―94―小野寛子

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