鹿島美術研究 年報第36号
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も、石井柏亭や木下杢太郎によってマネへの理解が通底した主張が展開された。この主張に共通するポイントは、「写実」の重要性を説いたことである。そして、マネ受容を通して「写実」を説くということは、つまり19世紀的写実主義に対する理解を促したことを意味する。そこで、本研究では、最終的に当時の「レアリスム」に対する認識を考察することで、日本近代美術におけるひとつの思想的傾向を明らかにしたい。この試みは、我国の近代洋画が表現主義的傾向へ向かった要因を解明する手がかりとなるのではないか、そしてそれによって日本近代洋画に通底するひとつの絵画観を解明できるのではないかと考えている。また、この絵画における「レアリスム」受容の在り方は、文学における写実主義・自然主義の理解が少なからず影響しているとも推察される。マネを擁護したフランス自然主義の小説家エミール・ゾラに対する、日本近代文学界の理解の在り方が、美術批評にも影響を及ぼしているのではないだろうか。例えば、森鷗外と坪内逍遥の間で繰り広げられた「没理想論争」では、自然主義の是非について意見が分かれた。森は、フランス近代文学における自然主義を「観察」が重要な意味をなす「自然科学主義」であると認識していた。対し、日本の写実主義文学を代表する坪内逍遥は、「観察」という自然主義の本質を見落としていたように思われる。森は、そのように自然主義を理解した上で、文学にロマンを求めたのである。一方、自然主義文学における「観察」の重要性を見落としつつも、坪内は現実描写を求めた点に、ゾラ的、近代自然主義文学の誤認がある。このように、絵画における「レアリスム」理解と同様の現象が文学においても見られたことは、我国における19世紀的写実・自然主義に対する理解の限界とでも言えるような壁があったのではないかとも思われる。以上のように、マネ受容を通して、日本近代絵画における「レアリスム」理解の有り方を、文学におけるそれと比較することで当時の芸術観の本質に迫ることができるのではないかと考えている。恐らく、文学におけるゾラや自然主義受容の視点を交え、美術における写実主義の理解について検討することは、新しいアプローチではないかと思う。続けて、文学におけるエミール・ゾラへの理解、ひいてはフランス自然主義文学への理解を「没理想論争」の言説に基づいて明らかにし、美術批評との影響関係を探る。この度の研究を通して、世界中で様々に受容されたエドゥアール・マネの日本での理解の在り方、それが齎したものについて結論し、自らの博士論文執筆の核としたい。―95―

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