鹿島美術研究 年報第36号
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日本近代における浮世絵受容に関する研究―系譜的研究を中心に―果ては、日本近代を牽引した絵画観、芸術観の一端をつまびらかにできるのではないかと考えている。研究者:東海大学課程資格教育センター准教授鏑木清方(1878-1972)は、挿絵画家から出発して日本画家として大成した数少ない画家の一人であり、歌川国芳、芳年、年方、清方という師承の系譜を辿るならば、そこには江戸から明治にかけてのもっとも正統的な「浮世絵」の流れをみることができる。しかしながら、鏑木清方やその弟子たちが近代以前の「浮世絵」をどのように受容し、継承していったのかについては不明な点が多い。江戸時代、狩野派を頂点とする絵画世界のヒエラルキーの中で、浮世絵は、卑俗なジャンルを扱い、当代の風俗、役者や遊女など、狩野派が排除したテーマをその中心主題とすることで、近世初期風俗画から発展して成立した。ヒエラルキーの最も下部にある浮世絵師は、美人画、役者絵、相撲絵、名所絵、風景画、花鳥画、武者絵、戯画、風刺画などの多彩なジャンルを開拓し、幕末から明治期にかけては残酷絵や血みどろ絵、光線画、時局報道絵なども手がけ人気を博した。江戸庶民の生活風俗、喜怒哀楽のメンタリティーを、西洋リアリズムとは全く異なる理論で描き出した浮世絵は、しかしながら日清、日露戦争の頃を最後の頂点として急速に衰退していったとされる。佐藤道信氏が指摘する通り、浮世絵の命運を握ったのは、美術の制度より庶民の関心であり、大量消費、大量生産にまつわる印刷技術やメディア(新聞、雑誌、写真等)の動向だったとはいえ、受容者だった“庶民”の意識変化も影響したと思われる(「美術・美術史・美術史学のなかの浮世絵」『美術フォーラム21』2016年)。浮世絵は、国家主導の「美術」振興、輸出振興のいずれの対象ともされなかったし、庶民の娯楽の中の日本は、帝国日本の表象にそぐわないと見なされたのも当然であろう。他方、制度としての「美術」が確立する中で、明治以降も浮世絵師の生き残りはいたわけで、なかには水野年方のように「日本画」へと転身を果たした画家もいた。事実、明治維新以降、江戸から地続きの浮世絵の系譜を継ぐ画家たちは挿絵画家や日本画家として生き残る道を模索し、鏑木清方のように官展を代表する花形作家として、後進の育成にも尽力する画家が活躍する時代を迎えたのである。―96―篠原聰

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