縄文土器における考古資料と美術品の境界に関する研究1952年の岡本太郎の縄文土器論以降、国内では棚畑遺跡出土の土偶(縄文のビーナス)や、新潟県笹山遺跡出土の深鉢形土器(火焔型土器)が国宝に指定され、展覧会などを通じ、一般市民にも縄文土器を美術作品として見る見方が浸透してきた。加えて、海外でも縄文土器の大規模な展覧会が開催され(パリ日本文化会館「縄文展」1998年、イギリス大英博物館「土偶展」2009年、パリ日本文化会館「縄文─日本における美の誕生展」2018年など)、その芸術性に高い関心が寄せられている。しかしながら、日本国内における縄文の美に関する研究は、縄文中期の土器の彫刻的な造形構造を評価した岡本太郎による前衛芸術としての縄文観に支配され、停滞した状況にあ本研究は、明治以降の浮世絵・挿絵系出身の画家のなかでも鏑木清方とその弟子たちを系譜的に「浮世絵画派」と捉える研究視角を設定することで、日本近代における浮世絵受容のあり方の一端を解明することを目的としている。具体的には①明治中期から大正初期(浮世絵の否定期)、②大正中期から昭和初期(浮世絵から美人画へ)、③昭和戦前期から第二次大戦後(美人画から風俗画へ)という3つの時代区分を設けて、浮世絵受容のあり方の変遷を検証する。角田拓朗氏が「美人画から風俗画へ─鏑木清方の官展再生論─」(『近代画説』16号、2007年)で指摘する通り、鏑木清方は官展日本画において美人画から風俗画への転位を図り、それを牽引した人物であり、自らの出自である浮世絵との関連性を戦略的に用い、美術の本流から外れるアウトサイダーからインサイダーへと転身するなかで、独自の画論や画風を確立したとみることができる。本研究は、浮世絵研究と近代日本画研究という2つの研究領域を横断する研究であり、研究の棲み分けによる領域間の断絶や両分野の様式・表現にみる連続性・非連続性を検証する視点を含んでいる。また、従来の「日本画」の成立過程に関する研究成果にも新しい視点を提供することになるだろう。研究者: 新宿区立漱石山房記念館学芸員、 武蔵野美術大学非常勤講師本調査は、近年その造形性が注目されているにもかかわらず、美術作品としての研究が活発に行われていない、縄文土器の美術としての研究を促進するために行う。―97―鈴木希帆
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